第9話 厄日

 高一の春。名前も知らない先輩に告白され、よくわからないからという理由でふった後、待ち受けていたのはクラスの一軍女子たちによる嫌がらせだった。


 ビッチだの男に色目を使っているだの、根も葉もない噂を立てられ、教室に居場所を失い、学校にいくのが嫌になって長いこと休んで家に引きこもっていた頃「プリントを届けに来た」と家にやって来たのは、その頃はまだ名前も覚えきれていなかった、担任の先生。


「俺でいいならなんでも相談乗るぞ。まあ、野郎に話せないこともあるだろうけど、樒の気がまぎれるなら何でも話してくれ。俺、いつでも職員室にいるしさ」


 別に特別ときめくようなことを言われたわけでもされたわけでもないし、白詰先生はイケメンなわけでもない。どことなくパッとしない先生。でも、向けられた笑顔に心がほんの少し動いたのは、その笑顔がお父さんに似ていたから。


 私はお父さんっ子だった。お母さんとはあまり気が合わなくて、お父さんの優しい笑顔が好きで、お父さんにいろんなことを教えてもらった。お父さんと手を繋いで歩いているだけで、心がポカポカして温かくて。


 私が中学生の頃、お父さんは私の知らない女の人と浮気をして、お母さんと離婚して、帰ってこなくなった。


 先生に会うために学校に行った。後ろ指を指されるのは変わらなかったけれど、私が来て、少しだけ先生に話しかけるだけで、先生がとても嬉しそうに、でもそれを隠そうとしているのがバレバレで、そんな少し格好悪いところがお父さんに似ていて。


 どんどん好きになった。気が付けば先生を目で追っていた。先生の姿を見ただけで、重い気分はどこかに消えていく。


「白詰先生」


「おお、樒。どうした?」


 放課後、職員室の前で他の生徒に手を振っていた白詰先生に声をかける。先生に呼ばれただけで、私の名前に特別な意味があるように聞こえた。


「星、消えちゃいましたね」


「ああ。冬休み、テレビでずっと言ってたなぁ。理由わかってないんだろ?」


「先生はわかりますか?」


「俺? わかるわけないだろー? でもまあ、星が消えてもあんまり変わらなかったけどなぁ」


「そうですね」


 たわいもない会話が毎日の楽しみで、それだけのために学校に来ていた。いつ行っても職員室にいるものだから、その笑顔が見たくって。


「……なあ、樒。これ、まだクラスの誰にも言ってないんだけどさ」


「はい?」


 それなのに、なぜだろう。今日は心がザワザワと騒がしい。


「俺、結婚するんだ」


 今日は朝のテレビ番組の占いの運勢が悪くて、髪の寝ぐせがなかなか直らなくて、頬を打ちつける風が一段と冷たい、そんな、最悪な日だった。


「結婚を機に、春から県外の高校に転勤になった。ちょっと寂しいよ」


 少し照れくさそうに「まだ、みんなには内緒な」と、秘密を共有した子供みたいな笑顔を浮かべる。心がキュッと締め付けられて、悲鳴を上げたかった。


「おめでとうございます」


 絞り出したのは悲鳴ではなく、そんな心にも思っていない言葉で。白詰先生が「ありがとう」と嬉しそうに笑うから、私が学校に来た時浮かべていたあの笑顔は、きっとこの人の中では何の変哲もない笑顔だったのだと、酷く冷静な私が耳元で囁く。


 恋とは厄介なもので。ガラガラと何かが崩れた音は、心が上げた悲鳴だったのかもしれない。

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