3章 意中之人

第7話 恋は盲目

 恋とはしごく厄介なものだ。


 毎日、毎日、心がソワソワと落ち着きをなくし、世界のすべてが色づいたように見えて気味が悪い。恋は盲目、という言葉通りに、なんだかそれ以外のものがとてもどうでもよくなって、自分自身に酔ったかのように、ワクワクと心を躍らせる。


 私は、しきみ蝶羽あげはは、そんなものに心を動かされないと高をくくっていた高校一年生の春。


 落ちるのは一瞬で、現実に目を覚ますのも一瞬で。朝に鳴り響くアラームを消したところで二度寝は許されず、夢の続きは見せてもらえない。そのくせに、手を伸ばすことも許さず、一瞬で突き落とすのだから、現実というのは残酷だ。


    ◇


 アラームの音で目を覚ました朝。あまりにも寒い部屋の空気のせいで、温かい羽根布団が私を誘惑する。それでも重たい身体を起こし、身だしなみを整えるのは、一目でいいから会いたい人がいるから。


 冬休み、星が消えたと大騒ぎだった周囲は次第に落ち着きを取り戻し、まるで何事もなかったかのように三学期が始まろうとしている。夜、空を眺めると呑み込まれそうな闇が広がっていることにも慣れて来た。人間の慣れとは恐ろしい。


 母親譲りの茶色に近い髪は、厄介なくせ毛という性質まで譲り受けてしまって、今日は一段と上手く巻けない。迫る登校時間に苛立ちを募らせつつ、眼鏡をひったくるように取って慌てて家を出た。


 外に出た瞬間、眼鏡が白く曇る。真っ白になった視界に苛立ちながら眼鏡を拭いて、駆け足で通学路を歩いた。眼鏡というのは不便なもので、いい加減コンタクトに変えればいいと自分でも思うが、それが出来ないのは、これ以上の面倒ごとを増やしたくないのと、あの人にどう思われるかが怖いから。


 学校に辿り着き、教室の扉を開ける。クラスメイトの「あけおめー」「ことよろー」という気だるげな声が聞こえ、クラスメイトに見つからないように自分の席へと急ぐ。


「あ、ビッチだ」


 聞こえた声に歩みを止めそうになった。


「うわ。新年早々嫌なモン見た」


「相変わらずデカイ乳揺らして歩くよねー」


「男誘惑してるつもりなんじゃない」


 ヒソヒソと話しながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて私を見ているのは、いわゆるクラスの一軍と言われる派手な女子たちだ。止まりそうになった足を動かし、自分の席に着いて荷物を下ろした。


 窓際の一番前の席。黒板が見えやすいその席に座り、向けられる悪意に気が付かないフリをしながら窓の外を眺める。


 私は、どうしてこうも懲りずに毎日休むことなく学校に通っているのだろう。


 そんなの、聞かなくても答えを一番よくわかっているのは私だ。この席は黒板が見えやすいだけでなく、教壇に立つあの人の横顔が一番よく見える。


「全員、いったん席着けー」


 ガラリと扉を開けて入って来たのは、このクラスの担任教師。その姿を見て声を聞いただけで、パッと教室が明るくなった気がするのは、私だけなのだろうか。


 白詰しろつめ先生。私の初恋の人。


「おはよー、せんせー」


「あけおめー」


「おお、あけおめー」


 生徒たちの言葉に爽やかな笑顔を浮かべる先生のその表情だけで、さっきまでの重たい気分が嘘のように心がポカポカする。冬の寒さの中、じんわりと胸のあたりが温かくなるのは先生のおかげ。先生に会えない冬休みは、酷く退屈だった。


「始業式が始まるから、もうすぐ廊下に整列してもらうわけだが、その前にみんなに紹介したい人がいる」


 先生に呼ばれて教室に入って来た天乃川ヨナという生徒は、教室の空気を一瞬にして返るほどの美少女だった。同じ人間なのか疑いたくなるほど、彼女の周りだけ華やかで凛とした空気が漂っている。


 クラスメイトたちは浮足立ち、天乃川さんの気を引こうとする生徒はたくさんいたが、天乃川さんはいかにも高値の花、という雰囲気で平然と澄ました顔をしていた。


 ただ、天乃川さんが唯一話しかけた、私は名前すら覚えていないクラスメイトの男子を見て、気の毒だなぁとしみじみと思った。


 目立つ人、というのは、いつも誰かを傷つけて、そのことにすら気が付かない。

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