4.決意、そしてひとりごと

 彼女の罪の告白に、言葉が出なかった。それを語る少女の目には、ずっと悲しみの色が浮かんでいた。


 絶句する俺を横目に、彼女は「でも」と続けた。


「私は自分を責め切ったあと、色々なことがあって、そして気付きました。父から、大切なものをたくさんもらっていたのだと。そして、幸せをたくさん貰っていたことに気付けたんです。それに、私、思い出したんです。あの日、お皿の上からチキンもケーキも無くなっていたことに。きっと、父は最後のその一瞬まで私のことを愛し続けてくれて、私に幸せを分けてくれた。だからこそ、私はあなたのような、苦しみの最中にいるひとに幸せを分けてあげたい……。父にもらった幸福を分けてあげたい。父のような人になりたいと、そう思ったんです」


 さっき、彼女は「あなたと同じ痛みを知っている」と言った。確かにそうだ。でも、俺と彼女では大きく違うことがある。それは、彼女は強くて、俺は弱いということだ。大切なものを失う痛みは計り知れない。それも、人がもう二度と立ち上がれなくなるまでのものだ。なのに、彼女は前を向いている。


 俺は俯く。瞳から零れるものを気取られぬように。そう、俺はずっと、こうやって下を向き続けて生きてきた。前の向き方が分からないのだ。だから、俺はモノクロの世界で生きてきた。そこから変わろうともせずに、ただただ惰性で生きてきた。そんな人間だったのだ。


 ならば、俺の人生は何だったのだろう。いや、そんなもの、答えは決まっている。

 意味がなかった。


 無駄だった。


 ただただ家族を────咲菜を不幸にする、ただそれだけだった。


 なら、俺は……


 俺は────


「だから────」


 またも、彼女の透き通った声が思考を遮った。


「罪を背負っていたとしても、自分の人生を無価値だと感じていたとしても────」


 そして、その少女は言う。


 己のすべてを、己の存在を、己の幸福をこめて────



「────あなたには、誰かに幸福を分け与える──そんな人になってほしいんです」



 俺は、その声に導かれるように、顔を上げて少女の顔を見ていた。


 涙だ。その瞳には涙が浮かんでいた。それはきっと、彼女が受けてきた全ての悲しみを体現する一雫だった。


 それでもなお、彼女は笑っていた。大きな悲しみを抱えながらも、たくさんの傷をその身に受け続けながらも、それでも前を向いて、足掻いて、必死に笑っていた。


 気付けば、俺の瞳からも涙が溢れていた。俺は、自分のことを酷く不幸な人間だと思ってきた。そして、それを免罪符にして、前に進むことから逃げてきた。


 自分は特別なんかじゃない。誰もが、その身ひとつでは耐えられないほどの苦難を背負って生きているのだ。そう思うと、今までの自分という存在がただただやるせなく感じられた。


「もうひとつ、あなたにお願いがあります」


「……え」


 少女は俺の目元に手をやって、優しく涙をぬぐい去る。それから、彼女はあたたかな笑みを改めて浮かべて、それを言った。


「誰か、あなたの大切な人の幸せになってあげてください」


 ……誰かの幸せになる?


 俺が?


 そんなこと考えられなかった。自分が幸せにできる人間は自分だけだ。それはもう、今までの俺の人生が体現している。だからこそ、もう許されないのだ。自分が誰かを思うなど、そんな資格はとうの昔になくなっているのだ。


「もしかしたら、今、あなたはなんらかの恐怖に苛まれているかもしれません」


 彼女は、まるで俺の内心を透かしたかのようにそう言った。俺は思わず息を飲む。


「だからって、あなたは絶対大丈夫────と声をかけることなんて、私にはできない。きっとあなたは進むことを酷く恐れているんです。そこから前進していくことが必ずしも正しいとも言えないし、前進したところで良いものが必ず待っているなんて保証はありません」


 彼女は僅かに視線を落とす。その顔に浮かべる笑みは、ほんの少し曇っていた。

 そして、彼女の言っていることはまったくもってその通りだった。俺は怖い。ただただ怖い。これ以上、他人を傷つけることによって自分が傷つくのは嫌だ。だからこそ、停滞というぬるま湯に甘んじることを選んできた。


「だけど……だけどね。私は思うんです」


 彼女は自分の胸に手を当てて、そのままギュッと握った。シャツはクシャリと歪む。


「人間にとっての幸せは、前に進むことでしか得られないんだって」


 その女性は、俺の眼をまっすぐに見据える。


「どんなに人生が嫌なことばかりで、理不尽に塗り固められたものだったとしても、それでも、自分が生きていることを肯定して、未来を生きていく────これは、人間にとって、一番大変で、一番たいせつなことなんだって」


 俺は、俺を見据える彼女の顔を見る。その顔は、優しくも何処か気高い輝きを放っている。


「だから、あらためて言わせてください」


「……はい」


「あなたはきっと、誰かにとっての幸せになれる。大丈夫、あなたはきっと優しい子だから」


 ────誰かにとっての幸せ。俺は、そんなものになれるのだろうか。正直なところ、彼女の話を聞いてもなお、俺にはその資格がないと思ってしまう。そんな自信が持てないのだ。


 だけど、俺は、こうやって話す彼女の姿を、どこか美しいと感じていた。それはどうしてなのだろう。きっと、明確な答えはいつまでたっても見つからない。だが、ひとつだけ漠然と分かることがあった。


 俺は、彼女の生き様について、強い憧憬のようなものを抱いていた。あれだけ人生に打ちのめされてもなお、ああやって笑って、人生に対する自分なりの賛歌を見つけて、そうやって生きていく。それは、美しいことだと思った。


 そして、そんな人間が自分に『大丈夫』と言ってくれたのだ。俺はまだやれるのだと、そう言ってくれた。


 なら、信じてもいいのだろうか。


 誰かのために────咲菜の為に生きてもいいのだろうか。


 もう、進んでもいいのだろうか。


 そう思い、俺は改めて彼女の瞳を見やる。すると、彼女は俺の背中を押すようにしてうなずいた。


 そして、俺は────


「…………俺、決めました」


 俺は、わずかに漂った沈黙を破るように言った。


「ええ、言ってみてください」


 彼女は、俺を見守りながらも、柔らかく俺に促す。ここでどんな答えを返すか、それはもう決まっている。だけど、怖い。そうであることに変わりはなかった。


 それでも、俺は進みたいと思う。誰かの幸せになりたいと願う。


 だからこそ、俺は言う。


 これはきっと、俺の新たなる門出なのだから。



「俺、強くなります。あなたみたいに優しく、誰かを幸せにできるように────」



 このとき────いや、もうずっと前から俺のやりたいことはひとつだった。

 ならば、もう進もう。


 怖くても、泣きたくなっても、前に行こう。


 停滞の時間は終わりだ。


 だから、俺は心の中で覚悟を決める。




 少しでも、咲菜と一緒にいよう。

 俺はそう決めたんだ。




     ◇


「ほんとうに……本当にありがとうございました!」


 少年はそう言って、公園のベンチから去っていった。その足取りは力強く、ずいぶんと男らしいものに思える。どうやら、あの子の中でなんらかのふんぎりを付けることができたらしい。


 ああ、本当によかった。


 心からそう思える。


 私は、人類は皆幸福であってほしいと願っている。しかし、そんなものは理想論に過ぎない。それは今までの人生で嫌というほど味わってきた。誰かが幸せなら、その代償として絶対にどこかで誰かが苦しんでいる。幸福と不幸は表裏一体なのだ。だからこそ、私はできるだけたくさんの幸せをいろんな人に知ってほしいと思うのだ。それが例え自己満足で、偽善だったとしてもかまわない。私はこの生き方が好きなのだ。


 そして、私はふと空を見上げる。


 そこでは、一羽の白い渡り鳥がグルグルと公園の上を飛び回っていた。




「これでよかったんだよね? おとーさん」




 私は空に、そんな独言を零した。

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