3.曇天、そしてむかしばなし

 つかの間の休日は恐ろしいまでのスピードで過ぎていき、もうはや憂鬱な月曜日がやってきてしまった。つまり学校だ。しかし、俺の今朝のルーティーンの中に制服を着るという行為は含まれていなかった。学園に向かおうという気がしなかったのだ。とりあえず、学校には風邪で休むと連絡しておく。


 さあ、何をしようか。咲菜に会いに行こうかとも思ったのだが、平日の午前は面会時間ではないので即刻没になった。しかし、家で過ごすにもなんだか落ち着かず、とりあえず町に繰り出すことにした。時刻は午前九時。学生たちは既に登校を終えているため、生徒に見つからないようにと慎重に行動する意味もなさそうだ。




 俺はなんとなく近場の公園を訪れた。そのすぐ近くには一本の川が通っており、それに沿うようなかたちでアスファルトの道が舗装されている。ちなみに、ご老人たちの散歩コースとなっている。


 俺は園内のベンチに腰掛けた。落ち着きたいときにはよくここに来るのだ。木々のざわめきが、川のせせらぎが、俺の心を凪いだものにしてくれる。


 俺はぼーっと公園を眺める。砂と土で埋められた遊び場にはあちらこちらに雑草が茂っており、もうそろそろ草むしりを行う頃合いだろうかなんてことを思う。遊具もところどころ錆びついている。


 ここに来ると、昔のことを思い出す。まだ、毎日が楽しかった頃。咲菜がいた頃。そう、ここは俺と咲菜の遊び場だった。滑り台も、ブランコも、砂場も、思い出を掘り返そうとしてみればどれだけだって掘り返す事ができた。それほどに、この場所は俺に罪を思い出させてくれる。


 俺はなんとなく空を見上げてみた。灰の絵の具を溶かしたような鉛の空が広がっていた。


「……ん?」


 すると、視界を白い何かが過った。


「鳥……?」


 そう、恐らくそれは鳥だ。それもかなりの大きさのものである。そいつは、空の鉛に霞むこともなく、不思議なまでの存在感を感じさせていた。


(あいつ、どっかで……)


 そう、どこかで見たような──


「こんにちは」


 考え込んでいると、不意に澄んだ声が聞こえてきた。俺はその声の在処であろう方を慌てて向く。


「いい天気ですね……って、今日は曇りだったか……」


 そこには、少し気まずそうに笑う一人の少女が立っていた。


 背中を覆うほどのまっすぐな黒髪はまるで夜を閉じ込めたようで、皮膚をつんざくまでに冷え込んだ北風がそれをサラリと流している。空が曇っているからか、その真白できめ細やかな肌がやけに儚げに映った。


 年齢は……俺の少し上ぐらいだろうか。大人っぽく見える。


「あ、ど、どうも……」


 俺はとりあえず挨拶を返した。その声には、自分で感じ取れてしまうほどの動揺が滲んでいた。


「驚かせてしまいましたか。すみません、あまりにも突然でしたね」


 そう言いながらも、彼女はたははと笑う。


「……いえ、こちらこそ」


 やはり、なんだかそっけない形になってしまう。やはり人と話すことは苦手だ。そして、遂には「お隣失礼しますね」などと言って、俺の右隣に座ってきた。


「して、そこの少年さん」


「少年……え? お、俺のことですか?」


「あなた以外に少年らしき人はいない様子ですよ? 生憎とここはおばあちゃんおじいちゃんたちの散歩コースになっているようなので」


 ああ、その通りだ、と俺は思わず苦笑する。


「そんなことよりあなた……高校生ですよね? それも米崎学園の」


「え、そうですけど」


 米崎学園──俺の通う学園の名前だ。


 俺はとっさに自分の身なりを確認する。


(制服着てきてないよな……?)


 無論、俺が着ていたのは黒のデニムズボン、長袖のTシャツに紺のジャンバーを着込んだというシンプルな私服だった。


「実は、私も米崎の生徒なんですよ。たぶんあなたの先輩です」


 俺の『何故分かった?』という疑念を見透かしたのか、彼女は予想外の答えを明かした。


「え?」


 俺はついつい素っ頓狂な声を上げてしまう。


「通学路で何度かあなたの姿を見かけたことがあったんです。家でも近いんですかね?」


「ってことは──」


「ええ、私もサボりです。あなたと一緒ですね」


 その少女は俺にニヤリとした悪い笑顔を浮かべる。


 まさかこんなにも早くサボったことがバレてしまうとは、やはり外出は控えるべきだったかもしれない。気まずくなった俺は彼女に対するように引きつった笑顔を浮かべた。


「まあ、咎めるなんてことはしませんよ。第一、私も絶賛非行中ですからね。ひこうタイプです」


 なら、そんな彼女に絶賛翻弄されている俺はきっとむしタイプだ。


「それで、少年は何か訳アリなので?」


「あぁ……、まあ、あはは……」


 図星というやつだった。そんな俺の驚きが表に出ていたのか、彼女は「でしょうね」と一言漏らし────


「私でよければ、愚痴の一つでも聞きましょうか?」


 ──といった提案を、笑って持ち掛けてきた。


「あー、そうですね……」


 俺は苦笑を重ねて俯く。


 やんわり断ろうと思った。今は人と話す気分でもない。それに、俺の話は人に話すべきものなんかじゃない。


「私たち、名も知らぬ仲ですけど、話してみて考えが変わることだってあるかもしれません」


 無理だと思った。これは俺の問題だ。


 それに、これを話したところで咲菜は目覚めない。あの子は救われない。もう、何をしたところで、どうにも────


「それに────」


 ────俺の右隣に座る少女は、俺の独白を遮るようにして言った。それは、先程とは少し異なった声。どこか力強くて、そして、何かを訴えるような、そんな声色だった。


 それに引き付けられるように、俺は彼女の顔を見ていた。目と目が合う。彼女の眼は黒曜のようで、意識が吸い込まれていくほどに深く、美しかった。

 そして、彼女は続けた。


 凛々しく、真摯で、まっすぐに────


「────私はきっと、あなたと同じ痛みを知ってるから」


 軽々しくそんなことを言うな。お前に何がわかる。


 俺はそう思った────いや、違う。思うはずだった。普段の俺ならば、きっとそんな不届きなことを思っていたはずだ。なのに、そうだというのに、俺の意識は、彼女の紡いだ言の葉に結びつけられていた。


 根拠などない。理由などない。でも、この人はきっと真実を訴えているのだと、そう思えた。


 そんな気になってしまうほどに、彼女の訴えを象徴する瞳は悲しみに満ちていて、今にも泣き出しそうに思えてならなかった。


「じゃあ……、順を追って話します」


 そして、気づけば俺は、ポロポロと今までにあったことを彼女に話し始めていた。昔の事故のこと、自分の忌まわしい力のこと────そして、咲菜のこと。このことを人に話すのは初めてだった。親にだって話したことがない。だからきっと、俺の話はひどくたどたどしいものだったと思う。でも、彼女は俺を見限ることなく、長々しい懺悔をただただ静かに聞いていてくれていた。


 俺がそれらを話し終えたのち、その少女は静かに口を開いて、今度は自分の語りを始めた。




 少し長くなってしまうことは承知の上ですが、どうか私の昔話を聞いてください。


 私には父がいました。母は私が物心つく前に亡くなってしまって、それに兄弟姉妹だっていませんでした。だから、父が私にとって唯一の家族だったんです。


 でも、父はいつも働きに出ていました。家に帰ってくる時間も酷く遅く、私と会える時間も雀の涙ほどしかありませんでした。父は、いつも死に物狂いで働いていたのです。今となっては、その行動は私を支えるためのことだったのだと飲み込むことができます。でも、かつての私は、ただの小さな子供でした。そんな幼い心しか持たない存在にとって、父の行動はあまりにも理解しかねることでした。


 悲しかった。淋しかった。私にとって。ひとりぼっちはあまりにも酷なものでした。父は私のことなんて好きじゃないんだと何度も思っていました。でも、少しでも時間ができれば、父は私と遊んでくれました。その腕でいっぱい抱きしめてくれました。嬉しかった。私は、父のことが大好きでした。


 そして、ある年のクリスマスのことです。私は、そのとき小学生でした。私と同じクラスの子の誰もが、家族と過ごすクリスマスが楽しみだ、と言いました。私は、今年こそはおとーさんと一緒にクリスマスを過ごそうと思いました。立派なチキンや、甘くておいしいケーキを作ろうと思いました。幼いながらも、このクリスマスのために何度も料理を練習しました。こんな粗末な料理でも、これだけがんばれば、父もきっと家に帰ってきてくれるだろうと、そう思っていました。


 その夜、父は帰ってきませんでした。


 なんで、どうして、と幾度となく思いました。時が経てば経つほど、胸の中の淀みはどんどんと増しました。そして、長い時間の果てに、私はこう考えてしまいました。


「おとーさんは、わたしがきらいなんだ」


 幸せな時間だってあったのに、父が私のことを愛していてくれていることだって知っていたのに、私はそれを見失ってしまいました。


 夜もふけってきたあたりから、私はずっと泣いていました。頑張って作ったチキンにもケーキにも手を付けることなく、ずっとずっと泣き続けました。たった独りで、叫び続けました。


 それでも、私はやっぱり望んでしまいました。お父さんに会いたいと────そう、願ってしまいました。


 私は、大した防寒具もつけずに、いつのまにか外に飛び出していました。もう外は真っ暗で、闇の海に浮かぶ朱い灯かりの中を、ただひたすら走り続けました。父がどこにいるかなんてわからなかったけど、それでも脚を動かし続けました。町中を探し続けていれば、いつか父に出会えると考えました。


 だけど、その時の私にだって、その考えが愚の骨頂であることは分かっていたはずです。その日は真っ白な雪がたくさん降っていたので、空気は極寒に苛まれていました。その大気たちは体を切り裂いて蝕み、肺すらも侵そうとしてきました。


 寒い。痛い。父に会いたい。


 私の心はぐちゃぐちゃになって、何度も涙が零れそうになりました。それでも私は父を探し続けました。やがて私が走った後にはたくさんのシミが点々とできるようになっていました。


 そうやって、私はがむしゃらに走り続けました。でも、ある瞬間、私の意識はガクンとグラつきました。私の体はあまり強くありませんでした。これは、母親譲りのものでした。


 咳が止まらなくなって呼吸は滞り、身体は全てが凍り付いてしまったかのように動かなくなっていきました。それでも、私は父に会いたかった。一緒にチキンとケーキを食べたかった。そんな思いを抱きながらも、私の意識は真っ白に染められて、ひとりその身を雪にうずめました。


 次の記憶は、真っ白な空間でのものでした。見知らぬ場所だったので、私は死んでしまったのかと思いました。でも、どこからか幾度となく声が聞こえてきました。『大丈夫だ』と、その声は何度も私に呼びかけました。その空間だけは、泣きたくなってしまうほどに、あたたかな場所でした。


 そして、気が付くと私は見知った天井の下のベッドで横になっていました。いつの間にやら、私は帰ってきていたのです。


 だけど、その傍らで父がベッドに突っ伏していました。父が寝ているところを見るのは久しぶりのことでした。私は父に、起きて、起きてと呼びかけました。返事はありません。チキンもケーキも頑張って作ったよ、と何度も呼びかけました。それでも返事はなくて、揺さぶって起こそうとしても、ピクリとも動こうとはしませんでした。


 それから私は、何度も何度も、たった独りで父に呼びかけ続けました。


 どうしてそんなことになったのか、そんなことは分かりませんでした。それでも、私は思ってしまいました。父は私の命と引き換えに死んでしまったのだと。私が勝手に家を出て、悪い子にしていたから、神様は父を奪っていってしまったのだと。




 父を─────おとーさんを殺したのは私だったのだと、そう思いました。



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