2.死にたくない、そして後悔
朝、重い瞼を持ち上げながら目を覚ました。
俺は部活に入っているわけでもないので、休日は両日ともにフリーだ。しかし、どこかを適当にほっつき歩くという訳ではない。俺には明確に行くところがあるのだ。
俺は、最低限の身支度をしたのち、その場所へと出発した。
「よう、元気か?」
俺はその部屋のドアを右にスライドさせて開けると、早速その子に向かって問いかけた。
返事はない。
「まあ、元気だったらこんな所いないもんな」
こんな風に話しかけ続けていたら、あの頃のように声を返してはくれないだろうか。そんな叶いもしない幻想を抱いてしまう。
その子──俺の二つ下の妹の咲菜は、今日もいつものように病院のベッドで寝ていた。無機質な電子音の中で、咲菜は昔と変わらない可愛らしさで眠り続けている。
この時間だけ、俺の世界はほんの少し色を取り戻す。
「お隣失礼するぞ」
そう言いながら、俺はベッドの隣にある丸椅子に腰掛ける。
「……ん?」
唐突に窓の方に何かの気配を感じた。「なんだ?」と窓の向こうを見てみると──
「うわあ!」
驚いた。思わず椅子の上で飛び上がってしまう。
窓の向こうで伸びた木に、大きくて白い鳥が停まっていた。
「見ろよ咲菜、でっかい鳥だぞ? こんなところで珍しいな」
返事はない。
俺がそう言っていると、その鳥は急に翼を広げて、何処かへと羽ばたいて行ってしまった。
「何だったんだあいつ……」
そう独白しながらも、俺は再び咲菜の方へと目を向けた。そして、そっとその柔らかな髪を撫でた。
「咲菜も大きくなったよな。だってもう中三だぜ? 今年が終われば義務教育も終了だ。まったく……時間の流れってやつはどうしてこんなに早いのかね。 ──なあ、咲菜」
返事はない。
……時々、ふと思う。そこに咲菜はいるのだろうか。これから先、咲菜が目覚める未来は来るのだろうか。そんなことは分からない。
いや、そもそも俺にはこんなことを思う資格すらないのかもしれない。
だってきっと────いや、これは俺のせいなのだから。
それは七年前のことだった。
俺は、そのころクラブで野球をやっていた。
一際優れた選手だったわけではない。といっても、ド底辺な選手だったわけでもない。至って平均的なプレイヤーだった。なにか特質したものがあったわけではなかったけど、野球をやることはそれなりに楽しかったと思う。チームメイトも監督もみんないい奴らで──きっと、俺はあの場所が好きだった。
ある日、監督が唐突に合宿に行こうなどということを言った。みんなは一瞬あっけに取られていたが、すぐに賛成の色を示して盛り上がった。俺にとって、初めての合宿だった。
そんな合宿の行き道で、ソレは唐突にやってきた。
山道を走っていると、急に車体が大きく揺れた。そのバスに乗っていた誰もが、わっと悲鳴を上げる。
何かに衝突したのだろうか。それとも、このバス自体に何らかの不具合があったのか。そんなことを考えられるほど、俺たちの状況は甘くなく、バスは暴れ馬のような挙動をしていた。
怯える者。
泣き出す者。
車内の状況は言うまでもなく阿鼻叫喚のソレだった。
それにも関わらず、俺たちの乗るバスは止まることなく、流れ崩れる土砂の如き激しさで暴れまわっていた。
そして、一際大きな衝撃が走ったのちに、俺たちは奇妙な浮遊感を覚えることとなった。何が起こったのか──そんなこと、子供だった俺にも分かった。ガードレールを突き破った車体が空中へと投げ出されたのだ。
ここが山道であるが故に、ガードレール外というのは崖のようになっている。そして、俺たちはその崖をこの巨大な車体の重量を伴って落下することとなる。
だからこそ、俺は子供ながらに悟った。
(俺、ここで死ぬんだ)
──もうどうしようもない。
──もうここで終わる。
──もう俺に未来はない。
そう。俺にはもう、この巨大な棺桶とともにへしゃげる以外の未来は存在していなかった。
(……いやだ)
不意にそんな声が聞こえた。誰のものだろうか。
(嫌だ)
いや、そんなことは考えるまでもないことだった。
(死にたくない)
そう、それはまごうことなく、俺の心の声だった。
ここで死ぬ?
いやだよ。
嫌だ。
まだやりたいことだってたくさんあるのに。
大人にだってなれてないのに。
それだというのに死ぬの?
嫌だ。痛いのは嫌だ。真っ暗なのも嫌だ。寒いのも嫌だ。
怖い。
怖い。怖い。怖い。
──死にたくない。
ただただ祈った。
──死にたくない。
ただただ己の未来を切望した。
──死にたくない。
何よりも強く、それを思った。
────────死にたく、ない──!
「……え?」
その刹那、視界が白く暗転した。僅かばかりの光が見えた。それは、まるで白くまばゆい鳥の羽のようだった。
俺はその輝きに触れた。なぜそうしたのかは分からない。でも、それに触れれば救われるような気がした。
(……あたたかい)
やわらかな光が、俺の体を包んでいく。それは、さしずめ天使の祝福のようだった。
そして、ガシャンとした轟音と計り知れない衝撃と共に、俺の意識は見果てぬ真白の闇へと消えていった。
一体どれほどの時間が経ったのだろうか。数十分、はたまた数時間か。俺の意識は覚醒した。
「いたっ」
朦朧とする意識の中で上半身を起こすと、体中の節々がズキズキと痛んだ。慌てて右腕、左腕と見てみれば、薄暗い車内でもわかるほどの痛々しい痣が、あちらこちら広がっていることに気づいた。
「……あっ!」
その痛みが、俺に事を思い出させてくれた。俯いた頭を上げながらも慌てて立ち上がる。
「みんな! だいじょう────」
みんなの安否を確認しようと声を張り上げたところで、俺は気づいた。いや、気づいてしまった。
そこには、とある光景が広がっていた。
それは、暗闇に混じる赤色。そして、次に見えたのが赤。
赤、赤、赤、あか、赤、あか、あか、アカ、赤、赤、赤、アカ、あか、あか、アカ、アカ、赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤──────
それらは、すべて人型の何かから生じていた。
「え──?」
言葉が出なかった。
目の前に映る景色は、あまりにも凄惨なものだった。
原形をとどめないほどにぐちゃぐちゃに弄ばれた相貌。
ありえない角度に曲がった腕と足。
目と喉を突き刺す硝子の刃。
そこに広がっていたのは地獄だった。
「なん、で」
俺は腰を抜かし、シーツに落ちるように座り込んだ。
(そうだ! 忠正は!?)
忠正──俺の親友の名前だ。仲のいいチームメイトも中でも、とりわけずっと一緒にいるような奴だった。今日なんかは、窓側がいいと言って、俺の右隣に座っていた。
(無事……だよな)
あいつが死ぬなんて考えられない。あいつがいなくなるだなんてありえない。心からそう思う。だというのに、俺は右隣を見ることに恐怖していた。
「忠正?」
正面を見たまま彼の名前を呼ぶ。大丈夫だ。きっとあいつは生きてる。生きてるに決まっている。それ以外のことなんてあるわけがない。そう思った。
──しかし、返事は無い。
「なんだよ、無視は寂しいぞ? ふざけてないで返事してくれよ。
……なあ」
返事はない。
「なあ、生きてるよな?」
返事はない。
「なあ……」
返事は──
「──ただ、まさ?」
俺は恐る恐る右を向いた。
見ている。
力なく首を背もたれに預けた忠正は、ただただ俺の目を見ていた。その瞳に光と呼べるものはなく、不思議とどこか寒々しく思えてしまった。
そう、忠正は──いや、忠正だったモノは、俺の顔を見ながら固く冷たくなっていた。
「……嫌だ」
嘘だ。
「……あぁ」
嘘に決まっている。
「……あぁぁ、あ」
こんなこと────
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
その先のことはよく憶えていない。
数か月後、俺は知らない天井の下で目を覚ました。言うまでもなく病院だ。あのバスの惨劇を見た後、俺はバスを飛び出し逃げていた。そして、事故現場周辺の森で倒れていたところを、そこで狩りをしているという猟師によって奇跡的に発見されたらしいのだ。それに、実は俺も重傷を負っていたようで、この病院でかなりの間寝込んでいたという。詳細はよくわからなかったが、回復は絶望的だったらしい。しかし、俺は目覚めた。医者が言うには、奇跡に等しかったらしい。
そう、この日から、俺は奇跡に見舞われるようになった。
しかし、それには代償がある。
それこそが、自分ではない誰かの幸福だった。
俺は、自分の身の回りにいる人間の幸福を食いつぶして、自らの幸福を生む。だからこそ、俺のチームメイトは、俺の生と引き換えに死んだ。
なら、俺が昏睡から回復したことの代償は何なのだろうか。俺は、誰を犠牲にして目覚めたのだろうか。
そう、それが咲菜だ。
俺が目覚めた後、入れ替わるようにして咲菜は倒れた。医者は原因不明だと言っている。俺は、咲菜が眠っていても、明日の朝には「おはよう」と笑ってくれることを夢見た。だけど、そんな奇跡は起きなかった。幾度となく、希望は絶望に変わった。
母さんは病んだ。父さんといつもけんかをするようになった。そして、母さんはやがて何も言わずに家を出ていった。
父さんは治療費と生活費のために、毎日夜遅くまで働いている。家にはあまり帰ってこない。
俺のせいだ。俺のせいで家族はバラバラになった。俺が、生きたいと願ったから、家族は──咲菜は不幸になった。
俺は、あそこで死んでおくべきだったのだ。
しばらく咲菜の顔を見たのち、俺は彼女の担当医のもとに向かった。咲菜の現在の容態を伺うためだ。その医者が言うには、まれに心肺機能の低下がみられるらしい。咲菜の容態は良好にほど遠いものだった。
咲菜はいつ失われてしまうのだろう。
世界の色はいつ消えてしまうのだろう。
そんなことを思っても、時間は無常にも過ぎていく。
だからこそ、終わらないことを祈り、彼女の目覚めを願うことしかできない。
そんなことを思いながらも、俺はひとり帰路に就いた。
ああ、世界はやっぱりモノクロだ。
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