6.俺のしあわせ

(どうしてだ! 全部うまくいっていたはずだろう!?)


 手術室に隣接したベンチで、俺は自分に必死にそう言い聞かせる。


 でもダメだ。気付いてしまった。いや、気付いてしまっていた。


 俺は幸せになってしまっていた。忘れていた────いや、気付かないふりをしていた。俺の幸せは、他人の幸福を食いつぶすことでしか成立しないということを。


 俺が咲菜を殺したんだ。


 本当に咲菜の幸せを願うなら、俺はもう彼女に干渉すべきではなかった。一人で生きていくべきだった。それこそが誰かを幸福にする手段だったのだ。


「クソがぁッ!!」


 俺はベンチに座ったまま、それを拳で強く殴りつけた。


「クソ……ちくしょぉ……」


 デニム生地のズボンに、ポタポタとシミができる。


 結局、俺は何もできなかった。そんな後悔だけが頭を巡り続けていた。


 長い時間の末に、一人の男が出てきた。医者だ。


「残念ですが、もう────」


 ────もう、なにも聞こえない。なにも感じない。なにも見たくない。


 俺はふらふらと立ち上がって、病院の外へ出た。真っ暗な空から、ふわふわとして白いものが降ってくる。そして、それらは深々と積もっていき、俺たちの──俺の思い出の何もかもを白く埋めていった。そんな白い闇の中を、ただただフラフラと歩いていく。


 終わった。何もかもは終わった。


 そんな失意の果てに、その雪たちは意識すらも白く染めていった。



       ◇



 ──ここは、どこだろうか。



 白い。ただただ白い。


 俺はそんなところに立っていた。


 何も見えない。


 何も聞こえない。


 何も感じない。


 ただ、俺という存在が真白に吸い込まれていることを感じていた。



 ──俺?



 俺……とは何だっただろうか。


 思い出せない。


 思考ができない。


 頭がぼんやりとしている。


 眩しさに、ただ飲まれている。


 だけど、ふと俺はあることに気づいた。



 ──公園?



 俺は、いつの間にか公園に立ち尽くしていた。


 見渡してみると、ふたつの小さな影が視界に過った。


 子供……だろうか。二人の小さな子供が楽しそうに遊んでいるのが見える。


 なぜだか、俺はその光景から目を離すことができなかった。



 ──懐かしい……。



 そう。それは、あまりあまるほどの懐古との邂逅であった。


 それだというのに、俺はこの光景の正体を思い出せずにいた。



 ──これは、なんだったっけ。



 この光景は、俺にとってどんな存在だったか。


 俺は、この光景を何故懐かしいと感じたのか。


 そんなことを考える。


 だけど、答えは見つからない。


 考えようとしたこと、思い出そうとしたことの全てが、ただただ霧散していく。


 俺は、それを悲しむことすらできずにいた。



 ──大切なものだったはずなのに。



 ……そうだ。そうだった。これは、俺という存在にとって、ただただ大切なものだった。


 きっと、守りたかったもので、愛おしかったもので、そして、失ったものだった。



 ──そうだ、思い出した。



 これは────この光景は、幸せだ。


 俺が狂おしいほどに願っていた、幸せだ。


 もう二度と戻ってこなくて、俺が手放してしまった、そんな幸せだ。



 ──俺の幸せは、ここにあったんだ。



 そう思った時、俺の視界を横切る白い影を見た。


 鳥だ。


 それは、他の何も寄せ付けないような真っ白さで、自由に空をかけている。


 ふと、俺は不思議なことを考えた。


 あの鳥は、俺をどこか遠くに連れ去ってくれるんじゃないかと。


 俺にとって一番幸せだったころに導いてくれるんじゃないかと

 そこまで辿り着いてずっと安寧な夢を見続けていられるなら、それこそが幸せなのではないかと。


 だからだろうか。


 俺はいつしか駆けだしていた。


 あの渡り鳥に着いていこう。


 そうして、幸せだったいつかの過去に辿り着くんだ。


 だから、俺は走り続ける。


 俺が培ってきたもの、そのすべてから逃げるようにして────



「────!」



 後ろから何かが聞こえてきた。


 この音は何だろう。声……だろうか。


 思わず、俺はまだ地に着いている足を止める。



「────ん!」



 また、声が聞こえた。


 何と言っているのだろう。


 分からない、思い出せない。



「────ちゃん!」



 誰かを呼んでいるのだろうか。


 誰を? ……俺を?


 そうだ。この声はきっと俺を呼んでいる。何故だかわからないが、それだけは分かっていた。



「────いちゃん!」



 なら、俺を呼んでいるのは誰だろう。


 俺はそれを知っている。分かっている。


 だけど、思い出せない。だからこそ、振り向けない。


 俺は、そのことがただただ悔しくて、悲しかった。


 それは本当に大切なものだったはずなのに。


 だからだろうか。俺の眼から、ひとつの雫が伝い落ちていた。



「────にい──ゃん!」



 ああ、聞こえる。


 俺にとってあんなにも大切だった、いや、大切なあの子が泣いている。


 幼かった俺がずっと一緒に過ごしてきた、そして、俺が初めて守りたいと思った子が、俺を悲痛に呼んでいる。


 それこそが、ろくでなしで空っぽな俺にとって、唯一幸せと呼べる存在だった。


 そう、それは────



「────おにいちゃん!!」



 俺にとっての、いちばんのしあわせは────



「咲菜あああぁああぁあああ!!!」



 ────そうだ。それは、俺の大切な妹だった。


 俺は、いつのまにか走り出していた。がむしゃらに、何度も足をもつれさせながらも駆けて、ようやくたどり着いた幸せを強く抱きしめていた。


「おにいちゃん……! おにいちゃん!」


 咲菜は、子供のように泣きじゃくりながらも、俺のことを強く強く抱きしめる。


「ああ、そうだ。そうだったな! 俺は、お前のにいちゃんだ……!」


 駄目だ。熱いものが頬を伝って止まない。今までの全ての哀しみをたどって流れ落ちていく。


 ここにあった。


 ここにあったんだ。


 このあたたかさは本物なんだ。


「ごめん……、ごめんな、咲菜……。にいちゃんのせいで、お前……」


 ずっと、謝りたかった。自分が生き残ってしまったことを。


 己より大切だったはずの存在を食いつぶしてまで、ただ何もない日々をのうのうと生きてきたことを。


 幸せであるべきなのは俺ではない。


 まごうことなく、咲菜ただひとりなのだ。


「おにいちゃん、わたしね? 毎日楽しかったんだ」


 ふと、胸の中の咲菜が、涙の滲んだ声で語り始めた。


「わたし、寂しかった。何も見えなくて、何も聞こえなくて、ぬくもりなんてものは贅沢すぎて、孤独がただただ寒かった」


 ああ、知っている。咲菜はずっと独りだった。俺がそうしたんだ。俺が生きたいだなんて願ったから、咲菜はずっと寂しい思いをしてきた。それは俺の罪だ。背負うべき十字架だ。


 だというのに、咲菜────なんで、


「だけどね、おにいちゃん。おにいちゃんが来てくれた時は違ったんだ。いつもお話してくれてたよね? だから、その時だけは色んなものが見えた気がして、色んなものが聞こえた気がして、そこにぬくもりを感じることができたんだ」


 ────なんで、そんな幸せそうに話すんだ。


「……いや、そんなはずは……。だって俺は!」


 そう。咲菜は俺を恨んでいる。そうじゃなきゃ可笑しいだろう。俺は、咲菜から青春を奪い、ぬくもりを取り上げ、幸せを踏みにじった張本人であるというのに。

「だから!」


 咲菜は、俺に覆いかぶさるようにして声を荒げる。


「────ごめんなんて言わないでよっ!」


「え……」


 それは、叫びだった。


「わたしは、この一年間が幸せだった! おにいちゃんがいてくれた時間がただ楽しかった! おにいちゃんは幸せを奪ってなんていない。与えてくれていたんだよ! いっぱいの幸せでわたしを包んでくれていたんだっ!」


「……やめてくれ」


「だから、そんな悲しそうな顔しないでよ!」


「……やめてくれよ、咲菜。だって俺は────」


「違う!」


 彼女の激情が俺の懺悔を遮る。


「この一年は────おにいちゃんがわたしと居てくれた時間は、わたしにとってかけがえの余地もない宝物なんだ! その日々を後悔に満ちたものにしようとするのなら、例えそれがおにいちゃんであっても許さない! わたしにとって、おにいちゃんだけが『幸せ』だったんだよ!」


 そう、咲菜は声を荒げて叫ぶ。その瞳からはたくさんの雫が、今までの日々の全てを伝って流れ落ちていた。


「……そう、か」


 俺は、咲菜の想いの果てに、そんな力の抜けたぼやきを零していた。


「そうだったのか……」


 咲菜の言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。


 自己満足なんかじゃなかった。俺の人生は、ただ奪い続けるだけのものじゃ無かった。


 なにより、咲菜は失った中でも幸せを見出すことができていたのだ。咲菜の今までは、ただ失うだけのものではなかった。


 自分にとって大切な存在の幸せを紡ぐことができた。あのときの女性が言っていたように、誰かの幸せになることができていたのだ。


 俺は、ずっとそんなことにも気付けずにいた。自分が、誰かの幸せになれている、そんな実感も、自信も持てずにいたのだ。


「よかった……」


 不意に、そんな安堵が俺の口からこぼれる。俺の意図しない言葉だった。


 そして、俺は胸元の咲菜を、もっとギュッと抱きしめていた。


 ああ、なんで、どうして、こんなにも大切な存在が失われなければならないのだろう。こんなにもこの子は頑張ったのに。ずっと、耐え続けてきたというのに。


 そう思うと、ただでさえ止まらない涙がさらに溢れ出ていった。


 どうにか救ってください。


 この子を助けてあげてください。


 この子に、報いをください。


 どうか、この子に幸せな未来をください。


 俺は、この世で一番大切な存在を胸に、何度も何度も心で祈り続けた。流れる涙が止まずとも、幾度となく祈り続けた。



 その時、俺は不意にあることを思い返していた。



 それは、いつか公園で話した名も知らぬ女性のこと。そして、あの異質な鳥のことだった。何故、彼女の命は助かったのだろう。何故、彼女の父は居なくなってしまったのだろう。そんなことを考える。


 答えは出ない────はずだった。


 俺は、ひとつの解に辿り着いていた。何故それに至れてしまったのか────恐らく、俺の持つ不可解な力がそうさせたのだろう。そうとしか言いようがなかった。


 俺の力は、誰かの幸福を贄にして誰かの幸福に変換することができる。そして、俺は今までその力の対象を己と定めて使い続けてきた。だけど、その対象というのを自分以外に定めるのも可能なはずだ。確証はない。それでも、あの女性の話で出てきた父の行動を思い返すと、こんな荒唐無稽な仮説も正しいもののように思えた。だって、きっとあの人も────


「……おにいちゃん?」


 咲菜の不思議そうで、どこか不安のこもった声が俺の思考を遮った。俺は彼女を抱きとめた腕をいつの間にかほどいていた。


 俺は迷っていた。きっと、それをしてしまえば、俺はすべてを失ってしまう。咲菜の生という幸福を得るために、俺はかの父親のように全てを投げうつこととなる。でも、そんなことはどうだってよかった。俺はただ、咲菜が生きていく未来、奪われた今までを取り返すためのこれから、それを彼女の傍で見守っていたかった。


 だけど、もう、それは叶わない。幸せを生み出すためには、それ相応の幸せを生贄にする必要がある。幸せの総量は決まっている。俺はそのことを知っていた。


 ならば、俺は何もかもをかなぐり捨てよう。そうすれば、咲菜は死なず、これからも生き続けることができる。もう、それ以外に道は無いのだ。


「咲菜」


「な、なに? どうしたの?」


 俺は咲菜の瞳を見る。その目に秘められていたのは、目を逸らしたくなるほどの、子供のような純粋さだった。


「………………約束、しよう」


「え……」


 咲菜の口から、素っ頓狂な音が漏れ出る。


「俺が、絶対にお前を生かしてみせる。でも、きっと、その先に俺はいない」


「何……言ってるの?」


 本当に訳が分からないといった様子だった。だが、無理もない。俺が話していること、そして、これから話すというのはあまりにも現実離れした事だからだ。でも、俺は続ける。伝わるかどうかは分からない。咲菜がどんな反応をするか────わかりたくない。でも、これは必要なことなんだ。


 俺は咲菜に何とか笑いかける。


「もう、俺はお前と一緒には居てやれないんだ。だから、咲菜はひとりで生きていくことになるかもしれない」


「……ねえ」


 話せ。言葉を紡げ。じゃなきゃ咲菜は救われない。


「でもな、咲菜。それでも、お前には生きてほしいんだ。だから────」


 言葉を紡ぐたび、ギリギリと爪が食い込んで、握りこんだ拳が傷んだ。


 俺が、俺が救うんだ。咲菜が生きていくためにやらなくちゃいけないことなんだ

どれだけ咲菜を悲しませることになろうとも、今後その悲しみを慰めてやれないとしても、咲菜を独りにしてしまうとしても…………それでも、話し続ける。


 話せ、話せ。


 何とかしろ。何とかするんだよ、俺が────!



「────ねえってばっ!」



 咲菜の慟哭に思わず顔を上げた。俺は話している間に下を向いてしまっていたらしい。


「おにいちゃんはさっきから何の話をしているの? いなくなる? そんな嫌な冗談言わないでよ……」


 数分ぶりに見上げた咲菜の顔は、涙に濡れていた。


「冗談……か。そうだったらよかったのにな」


 俺は何とかそう答える。吐き出す言葉がやけに喉を摩耗させた。


「なんで! どうして! ようやくまた会えたのに! また一緒にいられるのに! どうしてそんな苦しそうに話すの!?」


「……っ」


 どんどんと、咲菜の眼から水があふれていく。


 どうしてだ。そっちこそ、なんでそんな顔をしてしまうんだ。


 何故、こんな俺を引き留めようとしてしまうんだ。


「嫌だよ! 離れたくないよ! 大好きなおにいちゃんなんだ!」


 やめてくれ。そんなことを言わないでくれ。もう俺を呼ばないでくれよ。


 俺は。


 俺は────


「だからどうか側にいてよっ! 側に居させてよぉっ!」



「────俺だってなぁッ!」



 気付けば、俺はそんな声を上げてしまっていた。


「ずっと側にいたいよ! ずっと一緒にいたいよ! お前は大好きな妹なんだよ!」


 俺、一体何を言っているんだ?


「ようやく、ようやくお前が報われるかもしれないんだ! やっと普通に生きていくだなんて当たり前のことが許されるんだ! そんな未来を、一緒に歩いていきたかったさ……」


 駄目だ。言葉が止まらない。その慟哭が零れるたびに、地面に大きなシミがポツポツとできていく。


「おにいちゃん……」


「なのにどうして! どうしてなんだよっ! 俺は、自分の幸福を──お前との未来を犠牲にすることでしかお前を救えない……! 何で……どうして俺はこんな力しか持つことができなかったんだ。なんで、ただ当たり前の幸せを得ることさえ許されないんだよっ……」


 そうだ。俺にとって、咲菜との未来は何にも替えられないものだった。咲菜の病室に通い続けた時だってそうだった。俺はただ、いつか咲菜が目覚めて、また昔のように元気に笑いかけてくれる、それだけを渇望していたんだ。それが、俺の生きた理由で、幸せそのものだった。


 そんな未来を易々と手放せるはずなんてなかったんだ。


 でも、俺は。


 それでも、俺が本当に望むものは────



「それでも、どうか、お前だけは……せめてお前だけには生きてほしかった。こんな呪われた世界で生き続けなくちゃいけなくても、それでも、幸せになってほしかった。本当に、ただそれだけだったんだよ……」



 ああ、それでも、どれだけ今項垂れていても、俺は望むことしかできないのだ。


 咲菜が笑顔でいてくれる姿を。


 そして、彼女が大人になっていく姿を────。


「だから咲菜、どうか、俺の話を聞いてくれないか?」


「……え」


 目にたくさんの涙を浮かべた咲菜に、俺は諭すようにそう言った。きっと、その声は震えている。


 俺はもう泣いてはいけない。だって、俺はこいつのにいちゃんなんだから。最後ぐらい、その役目を果たしたい。だから、必死に堪えろ。足掻け。弱くても足掻け。


「これはもう、俺のわがままだ。だから、きっと咲菜にたくさんの悲しいことを強いることになる。それでも、にいちゃんの話を聞いてくれるか?」


「……うん」


 咲菜は涙ぐんだ鼻声で、俯いたまま返事をした。それが、彼女の見た目よりも幾らか幼く聞こえてしまい、ほほえましくなる。


「……わかった。ありがとうな」


 それでいい。笑おう。


「まずはな、また学校に行ってほしいんだ。勉強は大変かもだけど、でも、お前の将来にはきっと役立つ。でも、そんなことより、そこで過ごす時間で、どうかいい思い出を作ってほしいんだ。俺にとっては息の詰まる場所だったけど、まあ、咲菜なら大丈夫だと思う。咲菜はきっとみんなから愛されるよ」


 そう、これは単なる俺のわがままだ。


「それで、あっという間に三年間が過ぎたりして、お前は高校を卒業するんだ。その後は……どうなるんだろうな? 咲菜は賢いから大学か? でも、咲菜が選びたい道を選んでくれれば、俺としては本当に嬉しいよ」


 ただ願望の押し付けにすら等しい、そんなわがままだ。それはもう、自分でもわかっている。


「そして、お前は大人になるんだ」


 だけど、止まらなかった。


「でも、ここからがきっと長いぞ。なんせ、まだ人生は半分すらも、増してや四分の一も過ぎていないんだ」


 咲菜の未来を思うほど、口から夢がこぼれてく。


「そして、働き出したら……俺としては少し心配だが、きっと素敵な人と出会うんだろう。本当、いい人であってほしいな」


 遥か遠くまで続く、咲菜の人生という物語。


「そうして……そうして、咲菜は幸せに暮らすんだ。嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、そんな色んな事をその身に受けながらも、そうやって前に進んでいくんだ」


 それが、ただただ愛おしかった。


「だからな、咲菜」


 だけど、そんな夢はもう終わらせるべきだ。俺がいくら思い描いたって、死者がいくら語ったって、それは何の意味も為さない。


「最後に、にいちゃんと約束してくれ」


「────うん」


 咲菜の弱々しい相槌が聞こえる。


 そして、俺は願う。


 この子が立派な大人になって、幸せに生きていく、そんな未来の可能性が広がっていくことを。


 そして、俺の言葉が、咲菜の翼になることを────




「────どうか、生きてくれ」




 俺は、自分の最後の力を全てふり絞るようにして、それを言った。


 すると、真っ白な世界に、微かな静寂が吹き込んできた。


 咲菜は、まだ俯いたままだ。そして、幾度となく鼻をすする音が鳴り、地面にはポツポツと雫が垂れ落ちる。その姿を見ていると、こんな子供ですら生などという牢獄めいたものの中で過ごしていかなければならないことが、酷くいたたまれなく思えてくる。だけど、それでも、俺たちは生を肯定することでしか、俺たち人間は真に存在しえないのだ。


「……おにいちゃん」


 長い静寂の果てに、咲菜の声が俺へと向けられた。鼻をすする音は、いつの間にか止んでいた。そして、目の前にいる女の子はゴシゴシと腕で目元を拭う。


「わたしが生きていく未来には、もうおにいちゃんはいないんだよね?」


「……ああ、そうだな」


「でも、おにいちゃんは、それでもわたしに未来を生きろと言うんだよね?」


「…………ああ」


 そうだ。咲菜が生きる未来には俺はいない。もう、一緒には居てやれない。でも、咲菜には生きてほしい。そんな酷なことを、俺は妹に強要している。俺は、そんな酷いにいちゃんだ。それでも、生ある未来にしか幸せは存在しないのだ。


 やがて、またもやあたりに静寂が立ち込める。だが、それはさっき感じたものとは違った。そこには、どこか陽だまりのようなあたたかさがあった。なにかを祝福するような、そんな光が俺たちに差しているような錯覚を覚える。


「わかったよ、おにいちゃん。約束しよう」


 すると、不意に咲菜が顔を上げた。目は赤く腫れており、そのまわりにもしっかりと涙の跡が付いていた。だけど、不思議とその表情に弱さは感じなかった。


「わたし、頑張って生きてみせるよ。例え、私の歩む道が……おにいちゃんの居ない世界がどんなに残酷なものだったとしても、それでも、生きるよ」


 咲菜は笑っていた。その笑顔は不器用で、ぎこちないものだったけれど、そこには確かな強さがあった。


「だって、おにいちゃんは教えてくれた。どんなに辛いことばかりで、死にたくなるようなことばかりでも、どこかに幸せはあるんだって。何度無駄なことだと思ってしまっても、それでも、歩き続ければ得られるものがあるんだって」


 そして、俺の妹は────いや、その少女は俺のことを改めてまっすぐと見据える。


「それを示し続けたのが、おにいちゃんの強さだったんだよ」


「…………そっか」


 その言葉は、俺にとってこれ以上ない報いだった


 咲菜はもう、俺を追い越していく強さを得ていた。もう、そこに守られてばかりの『誰かの妹』としての弱さなんて無くて、その翼にはたった独りでも大空を飛翔するための勇気がこめられていた。


「それなら、本当に……よかった」


 俺はもう、すべてをやり終えていた。


 ああ、良かった。


 俺がやってきたことは、なにひとつ無駄じゃなかった。


 ……ならば、俺はもう十分だ。もう、俺がいなくたって咲菜は生きていける。自分の幸せに向かって歩いていける。


 それに、俺だって、自分にとっての幸せを見つけることができた。奪い続けるだけの人生じゃなかったのだと、自分の生を肯定することができた。これ以上はもう贅沢だろう。


 だけど、ふと思い至ることがあった。それは、たったひとつの未練だった。


「咲菜、最後に言わせてくれ」


「……うん、なに?」


 これから伝えたい言葉────それは、俺の生きた意味そのものだった。何もかもを奪い続けて、何もかもを与えられ、そして、いちばん大切なものを奪われた、こんな俺の人生にとって、唯一の生きた証と言えるもの。


 そして、今なら思うことができる。


 生まれてきて良かった────と。


 こんな人生も、幸せなものだった────と。


 なら、その締め括りは、俺がいちばん伝えたかった言葉であってほしいと思う。

 だから、俺は伝える。


 俺の今までと、最愛の存在のこれからへの祝福をこめて────










「────お前を愛し続けることができて、ほんとうによかった」









    


 

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