第7話 其ハ異界ニ有リテモ

「艦長! 彼方の斜面からなら比較的安全に登坂出来ると思われます」


 上陸地点の周囲に散開して調査に当たる事暫し、艦でも古参の機関科の上等兵が小野瀬の許に報告にやってくる。


「そうか、……分かった」


 小野瀬は小さく首肯すると、上等兵等と共に、その斜面へと向かう。


 そこは崖がぱっくりと切り裂かれたような亀裂で、ちょうど上陸した砂浜からは死角となっている場所だった。

 崖の裂け目に沿うように、もはや滝に近い急な傾斜の小さな枯れた沢が存在している。

 だが、その沢は傾斜は急ではあるが、足場はしっかりしており、それ程難なく登り切る事が出来そうである。


「……ふむ、悪くない。

 2名程ボートの警備に残し、残りは私と共にここから上に進むぞ」


「はっ」


 上等兵が命令を部隊に伝える為にその場を離れ、小野瀬は一人その場に残される。


 辺りを包み込む奇妙な静寂。

 どうにも居心地の悪い感覚だ。

 まるでただ独り、沈みゆくふねに取り残されてしまった様な。


 それを誤魔化すかのように、小野瀬はポケットをまさぐり煙草の箱を取り出す。

 中身も残り少なくなったそれから1本の紙巻煙草を取り出し火を付けると、煙を肺の奥底まで吸い込み吐き出す。

 紫煙が揺らぎながら立ち昇り、ゆっくりと薄れて消えてゆく。


 煙草が指先まで灰になる頃、カチャカチャと軍装が擦れる音が近付いて来る。

 それを聞いて、小野瀬はようやく少しだけ気分が落ち着いた気がした。


※※※※


「……ふう」


 たっぷり30分は掛けて一行は崖を登りきる。


 幸いにも、隊の中でも身軽な者が先行してロープを投げ、後続の者はそれを頼りに出来たので、全員が何とか無事に登る事が出来た。


 断崖上は岩肌が露出した段丘状の荒野であり、周囲をある程度一望することが出来た。


 小野瀬は部下達に小休止を命じると、眼前に広がるその光景に視線を向け息を吸い込む。


 嗅ぎなれた磯の香り。

 背後の大海には島影1つ無く、ポツンと浮かぶ伊163潜が唯一の人工物。


 何処までも続く海は空の青と混じり合い、境界線を曖昧にしている。

 船乗りである小野瀬には故郷の風景より見慣れた光景である。


 たが小野瀬がクルリと身を翻すと、そこには驚くべき光景が広がっていた。


 ――それは、異界と呼ぶに相応しい世界。まさにこの世の物とは思えぬ光景だ。


「あれは……山、なのか?」


 遥か遠方に霞んで見える巨大な地面の隆起。遠近感が狂っているのか、標高が全く測れない。

 雲を突き抜けてそびえ立つ世界の壁とでも見紛う様な山脈が何処までも続いている。


 そして、その山脈の麓には、これまた何処までも続く鬱蒼とした森が広がっているのが見て取れた。

 その木々の枝葉はまるで緑の絨毯の様に、視界の彼方まで広がっている。


 視界に入るのはそれだけではない。


 翡翠のごとき緑色の大地を悠々と流れゆく、この世界の果てまで続くかのような大河。

 所々に点在する湖らしき水溜まり。


 それらの色彩が織り成す風景は、まるで夢の中の出来事の様であった。


 そんな非現実的な情景を前に、小野瀬は暫くの間呆然と立ち尽くす。


「艦長……」


「あ、ああ。……これは世界の果てでも見ているようだな」


 いつの間にか傍らに立っていた藤田喜四郎二等兵曹の言葉に、小野瀬は我に返る。


「ハハ、世界の果てですか……ならば、同じ船乗りでも軍人ではなく冒険家にでもなるべきでしたな」


 そう呟く藤田二等兵曹の言葉は冗談めいた口調だったが、その表情は笑みを浮かべているものの、どこか青ざめて、強張っているように小野瀬には見えた。


「……」


 小野瀬は何か言葉を返すべきか迷ったが、結局何も思い付かずに黙ってしまう。


 それから暫くの間、2人は無言でその光景に見入るのだった。




 ――ふと、小野瀬の視界の端に何かが映り混む。


「……ん?」


 小野瀬はじっと眼を凝らす。


「……どうしました?」


 小野瀬の様子に気付いた藤田もそれを見遣る。


「……鳥、か。いや、……しかし……」


 彼等の目に写っていたもの。

 それは1キロほど前方で密林から舞い上がった数羽の大型の生物だった。


 過日の飛行生物の件もある。警戒の色も濃く、小野瀬は首に掛けた双眼鏡を手に取りその正体を確かめる。


「あれは……」


「……少々デカく見えますが、猛禽類のようでありますな。

 同じ場所をクルクルと、あれはまるで……」


 隣で同じ様に双眼鏡を覗き込んでいた二等兵曹がポツリと呟く。


 紡がれなかった言葉の続きは、恐らく自分が思い至った言葉と同じだろうと小野瀬は思った。


 何かを伺う様に同じ場所を旋回しながら翔ぶ鳥達。

 あれは屍肉を貪るハゲ鷹の類いと動きがそっくりだ、と。


 ――その時、不意に風向きが変わった。


 嗅ぎなれた磯の香りに変わり、微かに漂ってきたソレ。


 人という生物の本能に、畏れや狂乱の興奮と共に深く刻み付けられた香り。


 酷く焦げ臭く、鉄臭い。

 業炎に焼かれた肉の匂いに、ぶちまけられた臓物の腐臭。


 ――それは紛れもなく戦場の香りだ。


「ああ、くそったれ。分かったよ」


「……艦長?」


 突然吐き捨てるようにそう言った小野瀬に対し、藤田は訝しげに尋ねる。


 だが小野瀬はそれを無視して、声を張り上げた。


「総員行軍準備! これより内陸部の調査に出発する!!

 ……良いか、絶対に油断するなよ」


 小野瀬は腰の軍刀の柄に手を掛けながら、鋭く言い放つ。


 その視線の先には、先程までただただ美しいと感じた光景。


 ――今や、小野瀬にはそれが自分達の命を貪り尽くさんとする、魔性の領域と化して見えた。

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