第2話 夜間戦闘、準備良シ

 大きく水しぶきを上げながら、伊163潜は海面へと浮かび上がる。


 100メートル近くあるその巨体がのっそりと海水を割って姿を現す様は、さながら呼吸をする為に浮かび上がった鯨のようにも見えた。


 その鯨の鼻、もとい司令塔のハッチから水兵達が続々と飛び出していく。


「見張り員は直ち配置に付け! 砲術班は主砲及び機銃の点検の後、即応待機! 応急班は機関長の指示に従い艦の補修作業を開始せよ!」


 次々と下される指示に、水兵達は迅速に対応していく。


「副長。私は艦橋へあがる。

 発令所は任せた」


「了解しました」


 そう言って、小野瀬は敬礼するとその場を離れ甲板へと上がる梯子に足をかける。

 そんな中、小野瀬の元へと駆け寄ってくる一人の士官がいた。


「艦長。自分も同行します」


「おお機関長。貴様、怪我も無い様だな」


 小野瀬は声をかけてきた男の顔を見て、ほっとした表情を浮かべる。


 権田伝造特務少尉。

 伊163潜の機関長を務めている男だ。


 歳は壮年の小野瀬よりも更に上。だが、その相貌に老いは微塵も感じられない。


 それもそのはず、権田は一兵卒からの叩き上げで准士官まで上り詰めた人物で、兵卒からは時に艦長である小野瀬以上に恐れられ、信望を集める人物でもある。


 そんな男が、先程までの戦闘で無傷だった事に小野瀬は心底安堵していた。


「艦長こそご無事で良かった……まさに九死に一生を得たという奴ですね……」


「うむ……」


 苦笑しながら言う権田の言葉に、小野瀬は神妙な面持ちで答える。


「して、どうですかな? 我々の状況は」


「正直、何とも言えんな。……まぁ、見てみれば分かるさ」


 小野瀬はそう呟きながら梯子を昇り、甲板へと出る。



 そう、それは現実として其処にあるのだから。


****


「こ、これは……」


 目の前に広がる光景に、権田は言葉を失う。

 いや、権田だけでは無い。甲板に上がった乗組員の全てが戸惑っている。



 異質な夜空に輝く2つの月。

 そして、カーテンの様にそれを包み込むオーロラ。

 それが何処までも続く大海原を照らし出している。


 確かに目の前にある光景。だが、そのあまりの美しさと相まってまるで現実味が無い。


 中には呆けた顔で自身の頬をつねっている者もいる程に。



 それでも、各々が各自の職責を果たすべく身体を動かす事しばし、一通り部下に指示を出し終わった権田が近づいて来る。


「艦長。報告します」


「ああ」


「幸いにも、各タンクには大きな異常は見られません。

 ただし、舵の修理には少なくとも数時間を要します。

 ……また浸水した艦尾魚雷発射管室の影響で速力が落ちる事も否めないでしょう。船殻も大分傷んでおります」


「……そうか」


 艦長自ら天測を行う小野瀬は、夜空を見上げながらも静かに答えた。


「……艦長、これは一体どういう事なんでしょうな?」


 困惑する権田に、小野瀬は静かに口を開く。


「……分からない。

 だが、現状我々の身に起きている事で分かる事が1つだけある」


「それは?」


「此処は我々の戦っていた南洋ではない」


「!?」


 小野瀬の言葉に、権田は息を呑む。


「……まさか、あの世だとでも仰いますまい」


「……それならば、まだマシかも知れんな」


 そう言って小野瀬は幻想的な光を放つ夜空に向けていた六分儀から視線を外す。


「どういう意味でしょうか……艦長?」


「我々は得体の知れぬ世界へと迷い込んでしまったようだ」


 小野瀬は権田に真剣な眼差しを向けたまま続ける。


「月だけではない……星の配置がまるで違う。……少なくとも、此処は地球ではない」


「なんと……」


 ハッキリと断言する小野瀬にさしもの権田も絶句するが、気を取り直したように小野瀬に尋ねる。


「……いや、そうだ、他の艦は? 味方の無線が傍受出来ないので?」


「無理だな。仮に他の艦艇が居たとしてもこのオーロラではとても通信など出来んよ。

 我々は孤立無援の状態で、未知の海を彷徨っている訳だ」


 周囲に気付かれぬ様、小声で話す2人。


 小野瀬としても味方が居るなら是非とも合流したい。


 だが、この異常な状況で他者をあてにする程危険な事はないだろう。

 だからこそ、小野瀬は敢えて淡々と事実を告げる。


 権田はその言葉を噛みしめるように黙り込み、しばし思案した後、絞り出すような声で告げる。

 その声は、僅かに震えていた。


「……成る程。つまり、我々に出来ることはこの海を進むことしかない、と?」


「ああ。例えそれが地獄への航路であったとしても、な」


 小野瀬はポケットから煙草の箱を取り出し、一本口にくわえると、マッチで火を付ける。


 深く吸い込んだ紫煙をフッと吐き出す。


 そんな時だった。

 突然、耳障りな警報音が鳴り響く。

 同時に、甲板に立つ見張り員から報告が入る。


「方位210距離5000の上空に機影発見!!」


「なんだと!」


「敵機ですか?!」


 その見張り員の報告に、小野瀬と権田は揃って声をあげる。


「まったく、次から次ですな」


「……っち、未だ艦の修理が終わらんというのに。

 対空戦闘用意!!

 繰り返す。対空戦闘用意!!

 機関長及び応急班は艦内に退避せよ! 急げ!」


 舵が効かない以上、潜航は出来ない。


 ならば、豆鉄砲程度の武装しか無くてもこれで応戦する他ない。


 もっとも、これが敵機であればの話だが。


 小野瀬の指示は、迅速に各部署へと命令は伝達され、伊163潜は戦闘態勢へと移行していく。


「……では艦長。自分は中に戻ります」


 乗組員が慌ただしく動き回る中、権田はそう言って踵を返し艦の中へと戻っていく。


「うむ、頼んだ」


 小野瀬は短く答えると、再び空を見上げる。


 そこには、満点の星空が広がっている。

 小野瀬は思わず目を細める。


 夜空に煌めく星々。それは、彼の記憶の中にあるものとはまったく違う。それでもやはり美しい。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」


 小野瀬は独り言ちながら、紫煙を大きく吐き出す。



 放り捨てられた吸い殻が、ゆっくりと波に揉まれて消えていった。

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