第1話 我、異界ノ海ニ在リテ

―――――――

――――


「んぅん、……はっ! 俺は何を……」


 伊163潜、機関科所属の夏野昭三一等兵は、ハッと自分が意識を失っていた事に気が付いた。


「そうだ、敵艦の攻撃を受けて……」


 夏野は記憶が途切れる直前の状況を思い出し、思わず身震いする。


 臨時の応急修理班として艦内を駆けずり回っていた夏野。


 懸命に浸水箇所の防水作業を行っていたのだが、その途中で不意に強い衝撃に襲われ気を失ってしまったようだ。


 中学校を卒業して直ぐに海軍に志願した、未だ幼いといっても良い年若い夏野にとってそれは途轍もない程に恐ろしい事だった。


「……皆は無事なのか?」


 辺りを見渡すが誰も居ない。不気味な程にしんと静まりかえっている。


 無機質で武骨な潜水艦の艦内。

 戦闘を経て荒れてはいるが、幸い此処には目立つ損傷はない様だ。


 だが、やはりこの場にいるべき筈の仲間達の姿が無い。


「一体何処へ行ったんだ?……まさか、みんなやられちまったのか?」


 嫌な予感が頭を過る。

 そんな事あるわけがないと思いながらも、つい最悪の事態を考えてしまう。


「い、いや、きっとどこかに避難しているだけだ。そうに決まっている……」


 自分に言い聞かせるように呟くが、一度湧き上がった不安はそう簡単には消えてくれない。


「……っ、おーい! みんな、何処だ! おーい!!」


 夏野は喉が張り裂けそうな程の声を上げながら走り出す。


その時――


『――、―、―』


 聴こえる。

 海の中から、唄が聴こえるのだ。


 不思議な旋律を奏でる女性の歌声。

 それは、まるで天使の囁きのようで……。


「なんだ……これは……」


 あり得ない。とは思いつつも、確かに其処で起きている事に呆然と立ち尽くす夏野。


 ふと気が付くと、いつの間にか淡い光を放つ無数の人魂のようなものが彼の周りを取り囲んでいるではないか。


「ひぃっ!?」


 あまりの恐怖に尻餅をつく夏野。

 それはゆらゆらと揺れ動き、まるで誘うようにこちらへ向かってくる。


「……っ!」


 夏野はその光景をただ見ているだけしか出来ない。

 やがて、視界を埋め尽くさんばかりの光の氾濫は夏野を覆いつくすと、彼は再び意識を失なったのだった。


****


「――長。艦長。……艦長!」



 小野瀬は自分が何者かに激しく揺さぶられている事で目を覚ます。


 どうやら気を失ってしまっていてたらしい。



 心配そうな表情で此方の顔を覗き込む牧島。その背後では、発令所要員が忙しげに作業にあたっている。


「あ、ああ、副長。私はどれくらいの間、気を失っていたのだ」


「……時計を見るに10分程でしょうか。

 ……実は、自分を含めここの要員は全員気絶していたようなのです。

 各部所については現在状況確認中であります」


「……どういうことだ?

 ……まぁ良い。それより、戦闘はどうなった?」


「それが……」


 言い淀む牧島。


「……我々が浮上を開始した直後に敵駆逐艦の爆雷攻撃がありました。

 本艦は直撃こそ免れましたが、それでも相当な被害を受けてしまい……」


「……それは覚えている。で、敵は?」


 小野瀬はハッキリしない牧島の言葉に自分が焦燥感を募らせていくのを感じた。背筋を冷たいものが伝う。

 だが、牧島の言葉はそれを裏切るようなものだった。


「……それが、現在、周囲5000メートルに感無し、本艦は潜望鏡深度で停止中です」


「何だと!?

 ……あの状況で敵は我々を見逃したのか? いや、それより周囲に何者も居ないとは……どういう事だ?」


 牧島の言葉を聞いた瞬間、小野瀬は自分の耳を疑った。


「……自分にも分かりません。

 ……しかし、事実として本艦の周囲は異常なまでに静かすぎる」


「……」


 その頃には艦のあちこちから報告が上がり始めていたが、何処も似たような状況で、皆一様に気を失っており、目が覚めた者は周囲を見渡して首を傾げているのだという。


 若干名錯乱したとおぼしき兵士も居るというが、とりあえず今は放置されているようだ。


「艦長。指示を」


 牧島の言葉に小野瀬は考え込む様に腕を組むと、静かに口を開く。


「……潜望鏡上げろ。周囲を確認する」


「ヨーソロー!」


 艦長の指示を受けた伊163潜はゆっくりと行動を開始する。


****


ゴボッ――

と、鈍い音と共に潜望鏡が海中から露出する。


「…………」


 小野瀬は潜望鏡を通して見えた景色に思わず言葉を失う。

 そこには、あまりにも異様な光景が広がっていた。


「な、んだ、これは……」



 360度、見渡す限り続く大海原。何処まで行っても陸が見えない。


 おかしい。


 伊163潜が戦っていたのは群島に挟まれた水道で、陸が見えない筈がないのだ。

 いや、百歩譲ってそれは良い。

 所詮、潜水艦の潜望鏡なぞ精々見通せて10キロ程度。視界の範囲外なだけかもしれない。



 だが、オーロラ・・・・が出ているのはどう考えてもおかしい。

 ここは極地から遠く離れた赤道付近だというのに。


 更に対空潜望鏡を覗いてみれば、何故か月が2つ・・ある。


「一体、何が起きているのだ……」


 呆然と呟く小野瀬。


「艦長、一体何が……」


 隣に立つ牧島中尉が、鋭く、それでいて不安気な眼差しを小野瀬に向けて問うて来る。

 それだけではなく発令所のいたるところから己に向けられる視線。


 それに気付いた小野瀬は、ハッと威儀をただすと、


「分からん。……だが、少なくとも我々は今、何かとんでもない事態に巻き込まれているのは間違いない」


と言って、潜望鏡を下ろすように指示を出す。


「……艦長?」


「……メインタンクブロー。 本艦はこれより浮上し、周辺海域の確認及び船体の補修を行う! 浮上後は対空・対艦警戒を厳にせよ」


 訝しむ牧島に対し特に答えることなく、小野瀬は命令を下す。

 答えなかったのではない。

 答えられなかったのだ。



 小野瀬の船乗りとしての勘が告げていた。



 ここは自分の知らない海なのだ、と。

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