刹那、思い出の君は笑う

うたた寝

第1話


『全部持った?』

 玄関に居る彼女に彼は尋ねる。

 元々そんなに広くも無い部屋だったハズだが、どうしてか今はやたらと広く感じる。こんな広い部屋で一人暮らししてたっけな? と彼は荷物の少なくなった自分の部屋を振り返る。

 彼に聞かれた彼女はスーツケースの中を再確認して、何も無いことを確認してスーツケースを閉じた。それからずっと使っているバッグを肩に掛けて玄関のドアノブへと手を伸ばしたが、

『あっ』

 何か思い出したように、彼女は持っているバッグを漁る。中から出てきたのは、初めて作ったこの部屋の合い鍵であった。

『いいよ? 持ってても』

 冗談めかして彼が言う。彼女はその言葉にどこか懐かしそうに笑うも『ううん』と首を振り、彼の手を持って合い鍵をそっと握らせる。

『ばいばい』

 そう言って、彼女は部屋を出ていった。

 その時閉まった部屋のドアの音が、嫌に部屋の中に響いて聞こえた。



 休日、彼はいつものように映画館へと出掛けた。チケットはネットで予約済みのため、受付へとは向かわずに発券機へと向かう。

 発券機でチケットの発券を行う際、タッチパネルの画面に予約内容が表示されていたハズなのだが、慣れがあった彼はよく確認もしないで発券ボタンを押してしまう。出てきたチケットが2枚だったのを見て、彼はようやく自分の間違いに気付いた。

 やっちまった、と彼は思った。いつもの癖で2枚買ってしまった。発券前であればキャンセルもできたのだが、発券後のキャンセルは不可となっている。

 発券してしまったものは仕方が無い。一人で2枚出しても係の人が困惑するだけだろうから、片方はポケットの中へと隠滅し、もう片方のチケットを係の人へと渡して映画館へと入っていく。

 隣り合った席を予約していたため、当然、彼の隣の席は空いている。

 映画を観に来たのか、ポップコーンを食べに来たのか、何とも怪しい様子でポップコーンを頬張っていた彼女を思い出す。ほとんど彼女一人で食べる癖に、二人で食べたい、と、二人用のサイズを買っていた。

 今日、ポップコーンは買っていない。彼女が食べたい、というから買っていただけで、彼自身はポップコーンにそれほど執着は無い。彼女と出会う前、一人で映画館に来ていた時だって何も買わなかった。

 一人で映画館に来ていた時、彼は自分が席を予約した後に誰かが席の隣を予約してしまった場合を除き、彼は極力隣の席が空いている状態で映画を観る。別に映画を観るだけだから、隣に誰か居ても特に問題は無いのだが、わざわざ人の隣に座ることもないな、と思っていた。

 その時と一緒のハズ。一人で映画を観に来た時と何も変わらない状態のハズ。友人たちに誘われても大体は断る。映画を観た後、映画の話になったりした時に、自分のお気に入りのシーンをけなされたりなどしたくないからだ。

 一人で観るの、好きだったハズなのにな。

 映画館で、隣の席に誰かが座っていないのを寂しいと思ったことなんて、彼は初めてだったかもしれない。



 映画鑑賞後、行きつけの屋台のラーメン屋へと向かうと、

「おや? 今日は一人なんだね?」

 店主に不思議そうに尋ねられた。一人で来ていた期間もそれなりにあったハズだが、その後二人で来続けた期間も長いため、一人で来る印象は薄れ、二人で来るものと思われているらしい。

 彼女が、麺が啜れない、ついでに猫舌、という衝撃な事実を彼はこのお店で初めて知った。

 おおよそラーメンを好きになる要素など無いように思われ、やばい、お店選び絶対間違った、と彼は慌てたのだが、彼女は顔を横に振ると、でもラーメンは好きだ、と彼に言った。

 気を遣っているのではないか? と彼は思っていたのだが、一生懸命レンゲの上に麺を乗せて冷ましてから食べている彼女の姿は本当に美味しそうに食べていたので、ラーメンが好き、というのは嘘でも無かったのだろう。

 彼女用に何も言われずとも小分け用の小さなお椀を店主は付けてくれていた。彼女は麺をお椀によそって、少し冷ましてからゆっくり食べる。

 そんな彼女の様子を横目に、彼はいつもより気持ち食べる速度をゆっくりにはしつつも、ラーメンなのでゆっくりしすぎると麺が伸びてしまう。ゆっくりにするにも限界があり、いつも彼の方が先に食べ終わる。食べ終わった後、彼は彼女がゆっくり食べている姿を楽しそうに眺めていたものだった。

 もう気を遣わずに自分の速度で食べていい。食べ終わったらすぐに店を出ることもできる。

 良くなったようにも思えるが、どこか寂しくも感じる。

 店主が意外がっていたように、一人で食べるのは大分久しぶりかもしれない。

 自分が今までどうやって食べていたのか、感覚が思い出せず、どこかぎこちなく彼はラーメンを食べた。



 買い物袋を片手にスーパーから出て来て商店街を歩く。

 荷物を持っていない方の手に、彼は違和感を覚えた。

 片方の手が空いているなど、いつ以来だろうか?

 誰かが彼の横を通り抜けて行く度に、不意にその空いている手をそのまま握られるような、変な感覚がした。彼女が後ろから追いかけてきて彼の手をそうやって握ってくることがあったから、手がその感覚を思い出しているんだと思う。

 両手が空いていない状態に慣れ過ぎたんだと思う。ここしばらく、空くことの無かった自分の空いている手をどこか寂しそうに眺める。

 片方の手が空くことなどまず無かった。空いていると必ず、どちらからと言わず手を取り合っていたから。そうやってつながった手を振りながら帰路につく。離すタイミングも分からないものだから、繋がった手を放すことは家に着くまで無かった。

 彼女が彼の手を握れるように、彼が彼女の手を握れるように。荷物がどれほど重たくても片方の手に集中させた。片手で持つには明らかに多そうなスーパーの袋たちさえ、やせ我慢して片手で持った。

 その癖のせいか、彼は今も両手で分けて持てばいいスーパーの袋を片手で持っている。というか、買い過ぎたな、と彼はスーパーの袋を見て思った。買う量も二人分で慣れてしまっているのだろう。一人で期限までに食べきれるだろうか?

 とりあえずもうやせ我慢することもないな、と袋を両手に分けて持ったが、どこか落ち着かず、彼は結局片手でスーパーの袋を持つことにした。



 部屋に帰り、『ただいまー』と言ってはみたものの、誰も居ない部屋からは当然返事は無い。

『おかえりー』と言われることに慣れてしまっていたせいか、どこか寂しく感じる。

 部屋のどこかに居たりしないかと探しもしたが、当然居るわけもない。そもそも、そんな隠れられるような広さも無い。

 床に座って、テーブルの下に足を伸ばして、こっちを見上げて、帰ってきたことに嬉しそうに笑って、『おかえりー』と言ってくれた彼女が頭に浮かぶ。浮かんだ直後、現実に戻って、誰も座っていないテーブルを見つめる。

 スーパーの袋をテーブルの上に置き、先ほど思い浮かんだ彼女と同じように座ってみる。彼女と同じように玄関の方を見上げてみる。

 こんな風に見えてたんだな。彼は何かに浸るように目を閉じる。それからポツリと声を漏らす。

「おかえり」

 誰かが帰って来るわけでもない。自分の声が彼女の声に聞こえるわけでもない。けど、彼女の姿勢で彼女の言葉を口にすると、思い出の中に居る彼女はふと笑ってくれるかのように、彼は感じた。

 そんな名残惜しい余韻を振り切るように、

「飯でも作るか」

 彼はテーブルの上に置いた袋を持ってキッチンへと向かう。今日から作る料理は一人分でいいことに注意しながら。

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