始まりの終わり ②

 


***


 ゆっくりと——

 少女が目を開く。

 白い天井を見て、小さく瞬きした。

「よかった」

 沙垣さがき先達せんだつは言った。

 荻納おぎのう衿狭えりさの目が動いてこっちを見る。片目はまだ包帯で塞がれている。だが空いた片目は、確かにあの彼女の瞳だった。透き通った瞳が揺れた。

「……沙垣君?」

「まだ喋らないで。無理しないでいいから」

 先達は何とか笑みを浮かべようとする。

 だがどうしてもうまく笑えない。

 声も湿ってしまう。


 あの事件以来、先達はずっと衿狭の傍で彼女の回復を待ち続けた。

 鬼頭によって致命傷を負った彼女はしばらく危篤状態に陥った。だが渾身の治療の甲斐あり、ようやく天秤は持ち直した。

 それでも数日間、全く意識は戻らず、死んだように眠り続けていた。先達にとって間違いなく気が遠くなるような、何年もの長さに感じられる時間だった。

 その間ずっと思っていた。

 僕はこうすべきだったと。

 怒りに任せて鬼頭を追うより、憎悪に任せてナイフを振り翳すより、彼女の傍にいて励まし、容態を見守ることこそが自分のやるべきことだったのに。

 もう少しで——

 自分にとって一番大事なものを喪うところだった。

 あと一歩で、自分の人生を台無しにするところだった。

 あの人が止めなければ。


「どうなったの?」

 わずかな沈黙のあと、衿狭は訊いた。

 彼女らしい簡潔な訊き方だ。いかにも聡明な衿狭らしく思えた。

「大丈夫だよ。うん、本当に。何もかも無事終わったから。心配しないで」

 少し早口になりながらも先達は言った。

「……本当に?」

「本当だよ。……とにかくいまは休んで。詳しい話は今度しよう」

 それでも衿狭は心配そうに眼を向けてきた。

 こういうときの彼女の眼差しはいつも通りだ。どんな嘘も見通しそうな気がする。

 仕方なく先達は鬼頭や殺人バットは捕まったこと、綺新や夢猫らは怪我してないことなどを簡単に説明した。

「そっか」

 それだけ言った衿狭は窓の外を見た。

 午後の空から僅かな風が運ばれてくる。

 四方闇島よもやみじまは今日も薄霧に覆われていた。

「ごめん。僕そろそろ行くね。荻納さんが目を覚ましたことをみんなに……」

「待って」

 衿狭が呟くような声で言った。「もう少し、ここにいて」

「あ……うん」

 立ち上がりかけた丸椅子に先達は座り直した。

 そうは言っても、いま何を話すべきか分からなかった。

 彼女と話したいことは山ほどあったが、これ以上体に無理をさせるのも気が引ける。

 いや——

 いざ話せるとなると、何も話すことなどなかったような気もする。

 ただこうして、彼女の傍にいることができれば。

 彼女が傍にいていいと言ってくれるのであれば。

 それだけですべて叶ったような気さえした。

 くすっと衿狭が笑い声を漏らした。

「荻納さん?」

「あのときと逆になったね」

 悪戯っぽい目がこっちを見て緩んだ。

 先達は頬を掻く。

「そういえば……そうだね」

 先達が図書室で鵺化ぬえかしかけたあとのことを思い出す。

 あのときは先達がベッドに寝て、衿狭が傍で看てくれていた。

 もうずいぶんむかしのことに思える。

「お返し、されちゃったね。約束覚えてくれてた?」

「もちろん。でも僕はまだ……何にも出来てないよ」

 先達は首を振った。


 そうだ。

 お返しなんて出来ていない。

 自分は結局いつも右へ左へ走り回って、話をややこしくしていただけだ。

 衿狭を追いかけて禍鵺マガネになりかけたり、彼女を逃がそうと空回りして結局止められたり。全部自己満足で動いたことだ。いま冷静になってそれが分かる。

 こんなザマで「お返し」なんてとても言えたもんじゃない。

「沙垣君?」

 俯いた先達を気遣うように、衿狭が言った。

 はっとした。

 彼女の手が動き、自分の方にさ迷っている。

 少し迷ってから、先達はその手に自分の手を伸ばした。

 そっと彼女の手を包み込む。

 驚くほど小さくて、冷たくて、細い手だった。

 不意に涙腺が緩みそうになるのを堪えて、先達は身を乗り出した。

「荻納さん」

 いま言うべきことではないかもしれない。それでも。

「聞いてほしい」

 先達は衿狭の目をまっすぐ見て言った。


「伝えたいことがあるんだ」


 

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