第十幕 黎明 ④
先達の剣幕は先ほどまで同じように鬼頭に殺意を向けていた煉真さえ呆気に取られるほどだった。
「落ち着け先達! お前は病院に行ったんじゃないのか?
康峰はそこまで言ってぞっとした。
『お前の彼女ちゃんに薬キメて人殺しの恰好させてたのはあのクソ親父だぜ。しかもさっきも盾にして殺そうとした。あの様子じゃもう死ぬんじゃねーの?』
再び殺人鬼の言葉が脳裏を過る。
「荻納は……?」
康峰は低く呟いた。
先達が顔を伏せて歯を食いしばった。
思わずごくりと唾を飲み込む。
「まさか——」
「こいつが、こいつがやったんだ。見ていた看護婦が言ってた。こいつは自分が逃げるために……僕が、僕が間違ってた。最初からこいつを殺さなきゃいけなかったんだ。そうすれば荻納さんはいまも……!」
「待て、待て!」
再びナイフを握った手に力を込めた先達を康峰は必死で食い止めた。
「やれ、沙垣」
鬼頭が血の泡を噴き出しながらも濁った声で言った。
「そうだ、やれ。その意気だ。この、世界……変えるには、弱さは……ごほっ」
「くっ……!」
先達が力を籠める。
それを抑える康峰は脂汗が浮かぶのを感じた。
先達はこの学園では劣等生と言われる弱さだ。それでも日々訓練を積んでいる彼の腕を抑えるのは白化病の康峰には困難だった。ナイフの刃はふたりの力に揺れながらも着実に鬼頭に迫っている。
きっと——
煉真も、先達も、嘘は言っていないのだろう。鬼頭は刺されても仕方ないのかもしれない。殺されるべきなのかもしれない。
——それでも。
康峰は踏ん張った。ぎりぎりのところで先達の手を押し返した。また意識が飛びそうになりながらも、歯を食いしばってそれを食い止めた。
ただ鬼頭への同情からではない。
これは——
「く、ううっ……」
先達がちらりと視線を横に滑らせた。
村雲や竜巻が足を引き摺りつつもこっちに向かっている。他の生徒たちも。彼らが加われば先達が取り押さえられることは確実だった。本人もそれを分かっている。
何とかいまのうちに康峰を押し切ろうとしているが、康峰の抵抗がそれを許さない。
先達の表情が悔しげに歪んだ。
堪り兼ねたように先達は康峰に怒鳴った。
「どうして邪魔する? どけよ……どいてくれよ先生!」
「い、いや、駄目だ……」
「何でだ? 何でこいつを庇うんだ? 何で分かってくれない⁉」
「それは——」
康峰はどう返していいか分からなかった。
どんな言葉があれば彼を止められるだろう。
どんな理由があっても人を殺してはならないとか、こんなことは彼女も望んでないとか、そんな在り来たりな正論はきっと意味がない。彼の目を見れば分かる。
かと言って鬼頭の気持ちを理解しろとか、そんなことを言っても逆効果に思えた。
——駄目だ。
言葉が見つからない。
「……何でだよ。何で分かってくれないんだよ……僕はもう——」
先達が肩を震わせて叫んだ。
「これ以上後悔なんてしたくないだけなのに!」
——ああ。
そうだ。
『俺は何も間違ってない! 後悔することなんて何もないです。例えこの先、どんな処分を受けてもね』
この子はあの日の自分と同じだ。
自分が正しいと信じて疑わない。
きっとそれは煉真も同じだ。
そして——鬼頭さえも。
——なんでだろうな。
俺たちはいつも、自分の正しいと信じたことをしてきた。全力で。やれることをやろうとしてきたはずなのに。
なのに現実はいつもうまくいかない。思ったように行ってくれない。
それだけじゃ駄目なんだ。どんなに自分ひとりの頭で考えて、正しいと信じたことでも、間違えてしまうことはある。自分じゃ気付けないんだ。
間違ってからでは——遅いんだ。
ごめんな。
もっとちゃんと教えておいてあげればよかった。
何をすれば後悔して、何をすれば笑っていられるか。
それこそが。
それだけが。
あの人から教わるべきことだったのに。
この子たちに教えてあげるべきことだったのに。
康峰はゆっくりと指を滑らせた。
先達の手を抑えながらも、何とか指をナイフの刃先に滑らせて行った。
先達が目を見開く。
康峰の指先から鮮血が滴り落ちた。
慌てて先達が手を引こうとするのを、康峰はナイフの切っ先を握り締め抑えた。
「頼むよ、先達」
「何を——」
「お前の人生を、お前の手でドブに捨てないでくれ」
声が震える。指先も。
それでも離さない。
「何を言ってるんだ、そんなこと……」
「なぁ頼む」
教師じゃない。親でもない。
まして使徒のような特別な力も持ち合わせていない。
だから全部俺のわがままでいい。空っぽだった俺の人生に意味をくれたのはお前たちだ。そのお前たちのために。いまだけでいい。
俺を、この子たちの教師にしてくれ。
康峰は震える唇で何とか笑みを浮かべて言った。
「……頼むよ」
『……ここぞとばかりにやらないでください』
『何だよ。いいじゃないか。人の頼みが聞けるのは長所だと思うぞ』
『欠点の間違いでしょう……』
かっと先達の眼が見開かれた。
瞳が揺れて、やがてぽろぽろと涙が零れ出した。
甲高い音を立ててナイフが地面に落ちる。
そこへ村雲や竜巻が取り押さえに入った。
——そうだ。
それでいい。
先達が咽び泣きながら生徒たちに支えられている。
煉真は口を結んで俯いていた。
鬼頭の表情は見えないが、意識を失ったように押し黙っている。だがその肩は震えていた。
遠くからようやく天代守護のものらしい車が到着しようとしている。救急車のサイレンが朝靄のなかを響いていた。
康峰は急速に全身から力が抜けて行くのを感じた。
地面に両膝が落ちる。
「先生!」
「おい、センセー⁉」
「………!」
最早誰のものかも分からない声を聞きながら、薄れる視界で遠くを見た。
東の空から朝日が輝いている。
眩い光が瓦礫の町を照らしている。
その視界の先に——
あの日見た少女の幻は、もうどこにもなかった。
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