第九幕 闇 ④
「鴉羽学園の教師になってみませんか?」
その妙な電話が掛かってきたのはそのすぐあとだっだ。
食い扶持のためにいろんな職業を齧って来た■■でも、学園の教師というのは初めてだ。資格や経験以前に自分に似つかわしくない仕事だというのは分かっている。
もし——
白化病の原因が自分だったとして。
使徒戦争に敗北した遠因が自分にあったとして。
ここまで教師に相応しくない人物が他にいるだろうか。
現在こうして子供たちが離れ島に集められ
そんな男がのこのことやってきて教師とは笑わせる。
だが頬の筋肉は少しも動かなかった。
もしかしたらこれは、自分への罰なのかもしれない。
「……収入は?」
自分でもどうしてそう訊いたのか分からない。
その罰を受けるべきだという思いがあったのか。
単に女の言う通り、これ以上仕事を見つけるのが難しいと分かっていたからか——
しばらく給与や待遇について話す女の声を聞いたあと、■■は言った。
「最後にもうひとつ訊いていいか」
「何なりと」
「あんた、俺の過去について知ってるんじゃないのか?」
「さぁ、何のことでしょう?」
薄く笑う唇が見えるような、そんな口調だった。
「私はただ貴方の素質を見込んで、このお仕事を紹介させて戴いているだけですよ、
もう聞き慣れたその名前に、■■は何も言い返さなかった。
別に女を追及するつもりはない。ただこんな奇妙な電話を掛けてくるこの女は、
——別にいいさ。
そうだ。何でもいい。
過去も。現在も。未来でさえも。
俺の名前は——軛殯康峰。
誰でもない男なのだから。
カモメが遠くで鳴いている。
雲の動きが速い。じきに雨でも降り出すかもしれない。
あの電話から数か月後、康峰は
自分以外にも数人の乗客が集まっている。母親らしい女に連れられた少女が無邪気に海を指さして笑っていた。母親もそれを見て微笑んでいる。
港の湿った風が頬を撫でる。
最近になって康峰は思う。
白化病の患者で康峰のように心臓が停止してまた動き出す症例は聞いたことがない。康峰にはそれが少女の与えた罰、或いは呪いのようなものと思っていた。
だがいま思えば、彼女がそんなことを自分にする意味がない。もちろんそれが断言できるほど彼女について知っているわけではないが。
少なくともそう考えるより——これは彼女の《祝福》と受け取った方が自然だ。
例えどんなに心臓が停止しても、何度も起き上がり、蘇って生きるチャンスを与えられる《祝福》。
もし彼女が養父の言ったように病原菌を操る何がしかの能力を有していたとして、その力を持って自分を救った少年に《祝福》を与えようとしたとして——
「いや……」
——何でもいいか。
今更どうだっていいことだ。
結局本当のところなんて分からない。俺たちはいつだって不自由で盲目だ。不確定の暗闇にそれでも腕を伸ばさねばならないときもある。限られた情報のなかで模索し、限られた手段のなかから選択するしかない。
いつかあの人もそんなことを言っていた。
いまになって——ほんの少し彼の気持ちが分かるようになった気がする。
——今更、遅いか……
ふっと康峰は頬を緩める。
フェリーが港に着岸しようとしていた。
辺りの客がそっちに向けて動き始める。
それを見ながら康峰は改めて自分に言い聞かせる。
俺はただ給料目当てに教師になるだけだ。化物と戦う学園の生徒だか何だか知らないが、自分の邪魔にさえならなければ何でもいい。そいつらが生きようと、死のうと。どんな問題を抱えていようと。
——何だっていい。
俺にできることなんて——何もないんだから。
もう、誰かを救おうとして傷つく必要もない。
汽笛の音が高らかに響き渡る。
海の向こうからわずかに赤みを帯びた霧が漂って見えた。
「……行くか」
自分に言い聞かせるように小さく呟いて——
軛殯康峰は一歩を踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます