第九幕 闇 ③
それから更に数年後——
「お願いですよ。もうここしかないんです。給料を下げてもらっても構いません。ここで働かせてください!」
■■は中年女性に縋りつくようにして言い続けていた。
女は困ったように眉を寄せて煙草の煙を吐き出す。
「そうは言ってもねぇ、アンタこないだも仕事中に意識喪ってたでしょ。そんな危なっかしい人をお客さんの前に出せるかね?」
「あれはやむを得ない発作です、いや、あんなことはもう起きません」
女は困ったように目を背けた。
事務所の汚い床には虫の死骸が転がっている。
隣を歩く警備員の老人が困ったように嗤った。
何でもいい。今年で何回クビになったか分からない。これ以上は本気で働き口がなかった。もう生活費も限界にきている。
しかし残酷にも白化病の症状は深刻化する一方だった。
近頃は時折死んだように意識が飛ぶ。大体強いショックを受けたり肉体にダメージを受けた際にそういうことがある。いつか自分は不意に死ぬんじゃないかという恐怖さえ覚える。
だがそれとは別に、仕事をこれ以上失ったら飢え死にする恐怖のほうが強かった。
「悪いけどね、もう決めたことだから。はいバイバイ」
中年女性は手をひらひらと振って■■を追い払った。
「……くたばれ、クソババア」
事務所を出て冬空の下を歩きながら■■は毒づいた。
空腹を抱えてボロアパートに戻る。
久々に見ると郵便受けのなかはチラシがいっぱいだった。もしかしたら働き口のひとつはここに眠っているかもしれない。望みは薄いが、藁にも縋る思いだった。溜息を吐きながらチラシを取って自室に入る。
うすら寒い部屋で手をさすりながらチラシを机に置く。
ふと、チラシに混じって便箋が一通あることに気付いた。
自分への宛名も書かれている。心当たりはなかった。
——何だろう……
便箋を開ける。なかには短い手紙が入っていた。
■■は黙ってそれに目を通した。
そこには
「…………」
■■は何度もその短い文面を読み返した。息を吸い、また吐く。いつの間にか呼吸を忘れていたことに今更気付いた。
手紙を机のうえに置いた。指先が震えた。何とか動揺を抑えようとしてチラシを手に取る。一通、また一通と目を通すが働き口になりそうなものはない。と言うより正直何を書いているかも分からなかった。
彼が——養父が、あの人が。
死んだ。
もうこの世にはいない。
いないんだ。
日々の生活に追われてここしばらく思い出すこともなかった。あの養父の姿。最後に見た彼の後ろ姿。最後に喧嘩別れのように交わした会話。
それらが急にまざまざと思い出されるようだった。
——だから何だ。
いまの俺には生活があるんだ。死んだ人に囚われても仕方ない。生き返るわけでもない。そうだ、何より生活費を稼ぐことが重要なんだ。それ以外のことは——
——それ以外のこと?
何だ。何か重要なことがあったような気がする。
俺は何をするために——
そうだ、俺は。
——いや。
「……何だったろうな」
ごまかすように言って■■は窓の外に目を遣った。
夜の帳が下りようとしている。
あれからもう。
何年が経っただろうか。
「……はぁっ⁉」
急激に身を起こす。
どうやらまた心臓が止まっていたらしい。もう何度目か分からない。
愈々症状は来るところまで来ていた。心臓が止まる。しかし、しばらくするとまた動き出す。
どういう仕組みか分からない。同様の症状を持つ白化病患者も聞いたことがない。いっそ死ねるなら楽に死なせてほしいのに、この病気は自分を手放してくれないらしい。いつか死ぬ恐怖と、また死ねない絶望がここ数年繰り返されていた。
深夜の闇のなかで流し台まで這い、水道水を飲む。
動悸が収まるまでしばらく荒い呼吸を繰り返した。
相変わらず働き口はない。僅かな給付金はあるが、到底生活を賄えるほどではない。なのに病状は悪化し、薬代ばかり嵩む。おまけに最近は薬の効果も薄れてきた。
「くそったれ……」
横になったまま悪態を吐いた。
しばらくして薄い壁の向こうから物音が聞こえてきた。笑う女と男の声。すぐに声が途絶えたかと思うと、男の息遣いと女の嬌声が聞こえてきた。
——またか。
■■は舌打ちした。
こうなるとしばらく続く。こんな状況で寝付けるはずもない。
「…………」
■■はおもむろに身を起こすと、押入れから雑誌を引っ張り出す。女の裸が載ったその雑誌を広げて薄暗闇のなかで自慰を始めた。
こんなことをしている場合じゃないのは分かってる。だがそれが何だ? もうどうでもいい。
白化病が進行してから激しい運動は心臓が破裂するほど苦しい。だがその苦しさがかえって快感のスパイスとなった。汗だくになり、意識も朦朧とするが、何もかも忘れることができた。終わったあとは言いようのない解放感に脱力する。もうこのまま死んでもいい。
だが見飽きた裸ではなかなか興奮しない。隣室の女の声もむしろ逆効果だ。
■■はあの日見た少女を思い浮かべようとした。
最早その背中さえおぼろげな記憶の海に溺れた、かつて自分が救おうとした少女を。
——俺が助けてやったんだ。
お前は俺に恩があるはずだろ。それなのにどうして俺を助けに来ない?
恩を返すのが人間だろうが。ふざけるな!
頭のなかで女のむちゃくちゃにした。記憶が、意識が、何もかも混濁した視界でただ快楽を高めることだけに集中する。
「………ぅうっ」
どれだけ時間が経ったか、■■はようやく射精した。
ここまで精根使い果たした自慰は初めてだ。心臓が停止しなかったのが不思議なくらいだ。
しばらく布団のうえで荒い呼吸を繰り返す。
きっといまの自分は相当惨めな姿をしているだろう。新聞紙で叩かれた害虫になった気分だ。
——なぁ。
お前は何のために生きてる?
なんでまだ死んでないんだ?
暗闇のなかで■■は何度目か分からない自問を繰り返した。
あの日、自分は少女を救った。それが間違いなく正しいことだと思った。勝手な大人の都合で泣いている女の子を助けることに、間違があるはずがないと信じて。
その結果がどうだ。
自分を保護し養育してくれた養父は死んだ。世界には白化病という死の病気が蔓延した。自分はひとり孤独に、生きているのかどうかも分からない日々を過ごしている。思い出に爪を立て、切り刻むようにして日々を繋いでいる。
——これが報いか。
正しいと信じたことをした結果がこれなのか。
『ごめんね』
あの声が時折脳裏を掠める。
まるでいま耳元で囁かれたように。
あのときあの子はどんな声だったろうか。いまとなったら、笑いを含んでいたような、蔑んでいたような——■■にはそれがもう妄想なのか記憶なのか判別がつかなかった。
いずれにせよ——あいつは俺を覚えてもいないだろうな。
思えば最初から利用されていた気もする。自分は自分の意思で彼女を救ったようで、うまく彼女に誘導され逃走を幇助するように仕向けられていたのではないか。そんな気もしている。女はそういう生き物だ。
——どのみち確かめようもないか……
■■は薄く笑った。
養父のこともそうだ。死んでしまったいまとなっては彼が晩年何を思ったか分からない。
絶望しただろうか。この世界の理不尽さに。
軽蔑しただろうか。恩を仇で返した息子に。
どのみち——すべて手遅れだ。
もう。
「ふふ、ふふふ、ふ………」
気付くと頬が涙で濡れていた。
大きな声では笑えない。肺が痛む。
俺には笑うことさえ許されてないから。
この世で一番惨めな生き物だ。愚かで馬鹿で、何の意味もない生き方をしている。
やり直せる?
そんなはずがない。
取り戻せる?
そんなわけがない!
俺は人生を間違えたんだ。
——自分で自分の人生をドブに捨てたんだ!
「ごめんなさい……ごめんなさい、父さん……」
暗闇のなかで嗚咽しながら、■■は繰り返し呟いた。
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