第六幕 無明長夜(前篇) ①
悪い夢を見ているようだった。
いまここは嵐のあとの濁流のように大勢の人が駆けている。
彼らは叫び、怒鳴り、背後から迫る脅威から逃げようと走っていた。どこかで子供が泣き叫ぶ声も聞こえる。しかし夜闇に加えて紅い濃霧のせいでどこからかは分からない。
当然だがこんな時間にこれだけの人が犇めく様子をかつて見たことがない。それが一層目の前の光景を悪夢のように見せている。本当の夢であればどんなにいいだろう。
突然霧のなかから飛び出してきた男が「どけっ!」と言って先達にぶつかった。
先達は身を捻って避けようとするが、腰に差している鉄刀が男の体にぶつかり、慌てて掴む。男は走りながらも振り返って怒鳴った。
「おい、どこに向かってる⁉ そっちはバケモノどもだぞ!」
分かっている。
先達は人の波に逆行して走り続けていた。
脳内にはさっき
『もしかしたら——
それはどういう意味だ?
だが煉真は答える前に消えてしまった。
先達は迷った末に決めた。
——確かめるには病院へ行くしかない。
直接この目で衿狭の無事を確認するしかないんだ。
それが例え禍鵺の群がる市中を逆走することになっても——
やがて周囲の人の数が減ってきた。
人の声も凪いだように聞こえなくなる。
これで走りやすくはなるが、油断はできない。むしろ禍鵺に近付いたと考えるべきだろう。
先達は震えそうになる足を奮い立たせ、再び走り出そうとした。
「おいっ! お前そこで何してる?」
その怒鳴り声に足を止めた。
見ると霧の奥から数人が近付いてくる。
顔はまだ見えなくともその服装の特徴は濃霧のなかでもすぐ分かった。青色生徒会だ。
——こんなときに……
厄介な連中に遭遇してしまった。足止めを食らっている場合ではないのに。
果たして霧から姿を現したのは、何度か顔を見たことのある青色の生徒だった。先頭に立つ大柄な男は確か
「そっちは危険だぞ。迷ったのか?」
「いや、ちょっと……」
先達は言葉を濁らせた。
蜂寺が怪訝そうに眉を顰めて先達の言葉を待つ。
その後ろについてきている青色の少女がおずおずと進み出た。
「蜂寺先輩、もういいじゃないっすか。避難勧告もじゅうぶんしましたよ。ここらでとっとと私らも撤退しましょうよ」
「分かってる。が、まだ赤色が来てない。建物のなかにはまだ逃げ遅れている人もいるかもしれない」
「だからそれは赤色に任せりゃいいじゃないっすか? 私らはマガネに遭遇しても戦えないんすよ?」
彼女の言うことも分からないではない。
禍鵺に対抗する《
「……分かっている」
蜂寺は苦しげに眉を寄せた。
改めて周囲を見渡し、自分についてきている青色たちに向かって怒鳴る。
「おい、会長からまだ連絡はないのか⁉」
会長——この場合は青色生徒会の
生徒たちはみな一様に首を左右に振った。
蜂寺は舌打ちする。
「くそっ、会長は何をしてるんだ? こんな非常事態に連絡が一切つかないなんて」
「無理ありませんよ。
「……分かった。お前たち、撤退していいぞ。ここまでよくついてきてくれた」
「えっ、先輩は?」
「俺はもう少し残る」
背を向けようとした蜂寺に、青色の生徒が縋りつくように言った。
「そう言わずに、先輩も一緒に逃げましょうよ! どうしてそこまでするんです?」
「どうして? それが本来俺たちの仕事だろう! 何でもかんでも危険なことを赤色の連中に任せてふんぞり返って、お前はそれで恥ずかしくないのか? 俺たちの本来の目的を忘れたか?」
蜂寺は堪り兼ねたように声を荒げた。
「元はと言えばあの会長が現れてからおかしくなった! あの会長——いや、あの女が諸悪の根源だ。あんな奴は会長じゃない。こんなときに何をしているかも分からん奴の何が会長だ?」
「せ、先輩声が……」
「構うか。さっき言った通りお前たちも無理についてくる必要はない。別に責めてはいないさ。よく俺の無理にここまで付き合ってくれた、ありがとう」
青色たちは互いに顔を見合わせた。
少し迷うふうに沈黙が流れたあと、さっきまで泣きそうな顔をしていた女が諦めたように言った。
「分かりましたよ。私もついて行きますから」
「なに?」
「ここまで来たらもうヤケクソっすよ」
「……いいのか?」
「正直、あの会長にはうんざりしてましたし」
他の青色たちも武器を握り直した。
蜂寺を見る目は覚悟を決めたように揺るがない。
——青色生徒会にもこんな人たちがいたのか。
彼らの傍らで忘れられたかのように——いや、十中八九忘れられてそうな先達はひそかに驚いた。
だが考えてみればもともと生徒会にはそういう人間で構成されているはずだった。そう言えば以前の生徒会はもっとしっかりしていた印象がある。でなければ赤色生徒会はわざわざ決起しなかったし。
彼らこそ本来の生徒会の姿なのかもしれない。
「おっと……済まない。話してる最中だったな」
蜂寺が先達を見て言った。
「まだいたのか」「誰だっけ」の類を口にしなかっただけ良心的だが、後ろの生徒会の面々はそう言いたげな目でこっちを見ている。
「でお前はどこへ行こうと言うんだ?」
「いや、そのちょっと……」
先達が口ごもったとき、青色のひとりが視線を動かした。その表情がたちまち凍り付く。
彼の喉から悲鳴が迸った。
「まっ……マガネだ!」
蜂寺たちが一斉に振り返った。
赤い霧がすぐそこまで迫っている。手を伸ばせばその先端さえ見えないほどに。
その霧の奥から——
ぬっと白い仮面を覗かせたシルエットは、人間のような、しかし明らかに人間離れした異形の様相を為していた。熊のような巨体はそれだけで人間に恐怖心を呼び覚ました。
その太い腕が伸びて一番近い青色の頭を掴む。
「繧Дke☆7——」
林檎でも掴み上げるようにして軽々と少年の体が持ち上げられた。
「わああああああっ!」
少年が闇雲に鉄刀を振り回す。
刀身が禍鵺の腕に当たったが、ほとんど傷もつかず禍鵺は動じない。
周囲の生徒たちに一斉に恐怖が伝播するのが気配で分かった。
「うろたえるな! 日頃の鍛錬を思い出して戦うんだ!」
蜂寺は檄を飛ばしつつ鉄刀を構え、禍鵺に向けて踏み出そうとした。
だがその足が止まる。
視線は現れた禍鵺の背後、紅い霧に吸い寄せられている。
そこから新たなシルエットが浮かび上がる。ひとつ、またひとつ——霧のなかを揺らめくその集団はこちらに向けて足を進めている。十体は下らないだろう。
「ひっ……」
誰のものかも分からない悲鳴が聞こえた。
それでも蜂寺は声を響かせた。
「時間を稼げ! 赤色たちが来る、それまで——」
少年の頭を掴んだ禍鵺が腕を振るった。
少年の体が蜂寺に向かって飛んでくる。
蜂寺の巨体は少年ごと背後の建物の壁まで吹き飛んで倒れた。
「蜂寺先輩!」
だが彼の安否を確認する余裕は彼らになかった。
一斉に悪魔の集団が青い軍服目掛けて襲撃する。
それは一瞬ののちに先達の目の前で展開された。
碌に視界の利かないなか刀を振り回す者。腰を抜かしてただうろたえる者。何か叫んでいる者。隊列を乱した彼らに容赦なく化物の凶刃が振り下ろされる。誰かの肩を切った鮮血が先達の頬まで飛んできた。
恐怖——そんな在り来たりな表現では表せない。
何も感じてない、感じるのを脳が拒否している。
まともな神経で目の前で起こっていることを理解しようとすれば、足が竦み、手が震えて何もできなくなる。
——いや。
それでも。
何も出来なくとも。
先達は鉄刀を強く握りなおした。
ここで退いては何も変わらない。
戦わなければ何も変えられない。
先達が鉄刀を構え、足を踏み出した——
が。
「
脳天から雷が落ちたように凛とした声が先達の足を止めた。
はっとして振り返る暇もなく、背後から踏み出した少女が先達の横に立った。
赤色生徒会会長
「お前たちの雄姿は確かに見せてもらった。もう退がっていてくれ。ここからは——我々の仕事だ」
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