第五幕 犯人か悪人か狂人 ④

 


「……そんなことのために」

 不意に衿狭が呟いた。

 鬼頭の目がそっちを向く。

「そんなこと? お前にもこの大義が理解できないか。俺は生徒をひとりでも多く救おうとしているんだぞ。何もしないあの無能の学園長や人間を道具扱いする使徒とは違う。どうしてそれが理解できない? どうしてそんな目で俺を見る! ええっ⁉」

 鬼頭が衿狭の腕を強く掴んだ。

 衿狭の眉が痛みを堪えて歪められる。

 それでもその喉から声は出なかった。

「やめろ!」

 煉真は一歩踏み出す。

 だが、それ以上は踏み出せなかった。

 まともに戦って鬼頭は勝てる相手じゃない。返り討ちに遭うのが見えている。

 だが、このままでは衿狭が——


『やろうぜ、レン。いつまでくっちゃべってんだ?』


 再び脳内を声が反響する。

 鬼頭の肩に腕を乗せた男が手を振る。

『ここまで来て何もしねぇで帰るって、そりゃねえよなぁ? それとも人殺しなんてできませんってか? 今更? お前はもう何人もぶっ殺してんだよ。今頃善人ぶってんじゃねぇぞ、オイ弱虫!』

 違う。

 殺してない。殺したのは俺じゃない。

 俺は——殺したかったわけじゃない。

『何も違わねーよ。殺したいんだろ? こいつも、青色のクソどもも、他の連中も! お前を見下す連中は全員殺してやろうぜ。俺たちならできる!』

 黙ってろ。俺はそんな無差別な人殺しじゃない。

 お前には任せない。絶対に。

 絶対に——


「殺す価値もないよ」


 少女の冷ややかな声が廊下を響いた。

 衿狭が煉真をまっすぐ見ている。目尻が濡れていた。顔も青ざめている。

 それなのにその声は驚くほどはっきりと、煉真の耳に届いた。

「こんな奴に殺すほどの価値もない」

「荻納……」

『チッ』

 殺人バットが舌打ちした。

 鬼頭が再び衿狭の腕を捻った。

「話にならんな。お前たちは救いようのない屑だ。こうなったら——お前たちはここで事故・・に遭ってもらうとするか」

 衿狭の腕を引きずったまま、傍らの窓硝子を引き開けた。

 外から風が吹き抜ける。

「——やめろ!」

 鬼頭のやろうとすることを理解した煉真は叫んだ。

 鬼頭は構わず衿狭の体を持ち上げようとする。

 衿狭は抵抗しているがあの怪我では、もとい鬼頭相手ではどう藻掻いても逃れられない。

 衿狭の足が浮いた。

 その体が窓に引き寄せられる。

 まずい。

 殺される。このままでは殺される!

 だが、止めるには——

——あいつに任すしかないのか?

 煉真は歯を食いしばる。

 喉が締め付けられる。


「ちょっと、何してるの⁉」


 不意に背後から金切り声が響いた。

 驚いて振り返るとそこに看護婦がひとり立っていた。この状況を見て目を丸くしている。

 煉真はついここが禍鵺との戦いで次々怪我人が運び込まれている病院ということを失念していた。

——いや。

 しまった——

 鬼頭から注意を逸らしたのは一瞬だったが、その一瞬を鬼頭は見逃さなかった。

 煉真が振り向いた瞬間、鬼頭は力任せに衿狭の体を煉真に向かって投げていた。

 煉真が鬼頭に目を戻したとき、衿狭が倒れ込んできた。その体を抱きかかえるのも間に合わず、後ろに倒れる。

 慌てて前を見たときには、鬼頭の巨体は廊下の向こうの闇に向かって走り出していた。

「待てっ……!」

 咄嗟に起き上がろうとしたとき、何か生暖かいものが手に触れた。

 驚いて手を見る。

 そこは鮮血に濡れていた。見ると衿狭の腹部から包帯を通り越して鮮血が滲み出している。間近で見た衿狭の顔は先ほど以上に蒼白で、脂汗を浮かべている。

「荻納……」

 返事はない。

 瞼は閉じたまま開かない。

 煉真は黙って死相を浮かべる少女を見た。


 いつも。

 いつもこうだ。

 気が付くと俺は。

 何も守ることも。助けることも。変えることもできずに。

 俺の周りにだけ血を流した連中が転がっていく。

 何でだ? 決まってる。全部分かってる。

 俺がずっとずっと——弱いから。

——違う。

 俺が弱い? ふざけるな。俺は弱くねぇ。

 俺は。


 俺は——


「……もういい」

 煉真は呟いた。

 殺人バットが嬉しそうに飛び跳ねる。

『おっ! いいんだな?』

「ああ」

『待ってたぜ。任せとけよ相棒。俺が全部ぶっ殺してやる! ムカつく奴は全員血祭りだ! さぁ楽しもうぜ相棒! …………!』

 言葉の最後の方は聞き取れなかった。

 それは耳元で囁いたのか、自分の唇が動いたのか。とにかく何かが自分のなかに這入ってくる。

 煉真はそれに任せた。

 薄れゆく意識のなかで煉真は自分の体から青い炎が立ち上るのを見た。

 まるで自分自身が一個の巨大な炎になったような感覚。

 自分が恐れ、待ち焦がれていた感覚。

 ひとりでに体が跳躍する。

 あっという間に鬼頭との距離を詰め、その背後に迫る。

 振り返った男の表情が薄暗闇のなかで確かに見えた。

 化物を前にした人間が浮かべる表情——恐怖の表情。



 誰かが笑っている。

 気味の悪い声で高笑いを続ける。

 足元には鋼鉄の義手を引きちぎられた男が血塗れで倒れていた。

 返り血を浴びた男は再び歩き出す。

 夜の闇に向かって踏み出す。


 ああ——

 俺はもう、元には戻れないかもしれない。

 もう一生人殺しの怪物のままかもしれない。

 それでも。



——もういい。



 

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