第五幕 犯人か悪人か狂人 ①

 



 深夜の病院はかつてない恐慌状態にあった。

 医師も看護婦も右へ左へと走り回っている。

 怒鳴り声や悲鳴、走り回る靴音が絶えない。

 数十分前、唐突に市街地を禍鵺マガネの大群が襲った。逃げ惑う住民の背中を化物たちは容赦なく襲った。それ以来四方闇島よもやみじまで一番大きなこの病院には休みなしに患者が運ばれてくる。ここに逃げ込もうとする者もいる。

 事態を把握している暇はない。病院側はとにかく怪我人を保護し、治療するので手いっぱいだった。

 そんな状況下で——

 荻納おぎのう衿狭えりさが病室から抜け出しても、気付く者はなかった。


 一応殺人バットとの関与が疑われている彼女には病室の外に警備が付けられている。だが騒ぎのなかで背後から衿狭に襲われた彼らは、呆気なく廊下に突っ伏した。

 衿狭は腹部の傷口を抑えながら様子を伺う。

 下階は騒がしいが、まだ自分のいる階に患者も医師も上がってこない。廊下は非常灯でわずかに照らされている程度だ。闇に紛れて抜け出すならいましかない。

 まるで物陰から獲物を狙う獣のように慎重に、かつ静かに、衿狭は歩いた。


「どこへ行く?」


 突如、闇から声が轟く。

 衿狭の足がぴたりと止まる。

 衿狭の背後に巨岩のような体躯の男が立ちはだかっていた。

 男は闇のなかを踏み出し、衿狭を冷ややかに見下ろす。


「ぅうっ……!」

 衿狭の喉から絞り出すような声が漏れる。

 巨躯の男は衿狭の喉元を掴むと、造作もなくその細い体を持ち上げた。そうして喉を締める手に力を込めて行く。

 衿狭のか細い腕がいくら抵抗してもぴくりとも動かなかった。

「…………」

 男は不気味なほど無言のままだ。いまからひとりの人間の命を奪おうとしているとは思えない——或いは、だからこそか。

 衿狭の意識が奪われそうになったそのとき——

 暗闇から投げられた消火器が大男の後頭部を襲った。

 咄嗟に腕を振り解いて振り返る。衿狭の体が床に崩れ落ちた。激しく咳込む衿狭など視界に入らぬように、男は闇のなかに目を凝らす。

 消火器を投げた灰泥はいどろ煉真れんまが闇のなかから現れた。

 煉真は肩で息をしつつも男を睨み据えて言った。

「やっぱりか……やっぱりお前だったか」

 巨躯の男——鬼頭きとう員敬かずたかは黙って見返してくる。

 鴉羽学園きっての戦闘教官であるこの男は、先日衿狭に刺された傷をものともせず立ちはだかっている。

 煉真は一度唾を飲み込む。

 そして鬼頭に言った。


「お前が夜霧よぎりを殺したんだな」



 ——肺が潰れそうだった。

 ほとんど呼吸を忘れたようにここまで走って来た。

 学生寮からこの病院に来るまでに禍鵺に襲われた人を何人も見た。誰も彼も自分のことに必死で煉真に気付きもしない。本来なら《冥浄力めいじょうりき》を使える煉真は禍鵺と戦うべきかもしれない。

 それでも。

 沙垣さがき先達せんだつと話していて不意に落雷を受けたように思いついた『可能性』に、煉真の足はまっすぐここへ向かっていた。

 病院のなかもごった返してまさに地獄みたいな様相だったが、お陰で誰にも怪しまれず荻納衿狭の病室前まで辿り着けた。

 俺の考えが間違ってなかったら——

——鬼頭は荻納を殺そうとする。

 いや、そんなはずはない。

 思い過ごしだ。きっと俺の勘違いだ。

 そう言い聞かせる自分もいた。

 だが——

 事実はそうじゃなかった。

 階段を上り、衿狭の病室の前まで来た煉真の視界に飛び込んできたのは、衿狭の首を絞める鬼頭の背中だった。

 咄嗟に廊下の脇にあった消火器を拾い、力任せにその後頭部目掛けて投げつけた。消火器は命中したというのに鬼頭はびくともしない。

 暗闇のなかで向かい合う男の表情はほとんど見えない。だがうっすらと窓の外から差す街灯が横顔を映している。鬼頭はかつて学園で見たことのないような冷徹な表情をしていた。

 まるで仮面でも付けているかのようだ。

——いや。

 むしろ普段見ていた表情こそが……


「何と言った?」

 鬼頭は場違いなまでに静かな声で言った。

「灰泥煉真。いや、殺人バットと呼ぶべきか。お前こそ人殺しだろう。何をいきなり現れて俺を人殺し扱いしている? 頭がおかしくなったか、ええ?」

「俺もまさかと思った。正直そんなことは考えもしなかった。けどそれこそ俺たちの盲点だったんだ。俺たちは最初っから・・・・・間違えてたんだ」

「だから何を——」

「夜霧は自殺なんかしてなかった」

 煉真は鬼頭を遮って言った。

 かすかに鬼頭の眉間が震えた気がした。

 ここに来て初めて見るこの男の動揺だ。

 だが、すぐに鼻で笑って視線を落とす。

「何を言い出すかと思えば……」

「俺もまさかと思ったぜ。そんなこと想像もしなかった。多分荻納もな。だがふとしたことでその可能性に思い当たったんだ。俺たちはあの日夜霧が自殺した前提でずっと動いてた。動機は何かを考えてた。けどそんなものは最初からなかった——つまり自殺自体が嘘だったとしたら話は全部ひっくり返る」

 それに気付いたのは先達から聞いた、あの男の言葉がきっかけだった。

 あの男——軛殯くびきもがり康峰やすみねが、何気なく猫工場で発した言葉。


『ちゃんと死んでるか確認したか? まだ生きてるかもしれないぞ』


 もし。

 夜霧七星が自殺していなかったとしたら?

 誰がその死を疑いわざわざ確認しようとしただろうか?

 衿狭は自分に殺人バットの嫌疑を掛けられている最中でも夜霧の死について考えていたのだろう。そんなとき康峰の言葉を聞いて気付いたのだ。そう考えると急に態度が変わったのも頷ける。

「……だが、それじゃおかしい。天代守護てんだいしゅごは現場検証したはずだ。奴らをどうやって騙した? その後夜霧はどこへ姿を隠した? 何より——第一発見者はどうして嘘を吐いた? なぁ、第一発見者の鬼頭センセー?」

 鬼頭が押し黙る。

 構わず煉真は一歩踏み込んだ。

「もしあの自殺が偽装だったとしたら第一発見者は必ず何か知ってるはずだ。だから荻納は猫工場を出たあとあんたに会いに行った。沙垣たちに黙ってひとりで行ったのはまだ確信が持てなかったからだろうな。あくまで仮説だ。俺もこれだけじゃあんたが夜霧を殺したなんて思わなかった。だが」

 煉真は鬼頭の傍らで膝をついている衿狭に目を遣った。

「その後、そいつは姿を消した。そして二日後、薬物中毒の姿で、殺人バットの恰好をして現れた。……普通に考えりゃ荻納が会いに行った奴がどうかしたと思うだろ」

 煉真は更に踏み込む。

「お前は偽装に気付きそうになった荻納を捕まえた。その後薬物を与え、朦朧としてる荻納に殺人バットの恰好をさせた。生徒を守る口実でどさくさに紛れて殺しちまえば口封じできるからな、そうだろ鬼頭!」

「馬鹿々々しい」

 吐き捨てるように鬼頭が言った。

「まるで探偵気取りだな。何か証拠はあるのか?」

「いまお前がしようとしてたことを忘れたのか?」

 煉真が衿狭に顎をしゃくって言った。

 鬼頭が黙り込んだ。

「俺の話が嘘ってんなら、何でいま荻納を殺そうとしてた? お前は沙垣が邪魔に入ったせいで荻納を町中で殺すのに失敗した。そこで今度はこの騒ぎに乗じて荻納を殺そうとしたんじゃねぇのか?」


 煉真は鬼頭を睨み続けた。

 鬼頭は相変わらず押し黙っている。

「……何とか言えよ、鬼頭。なぁ!」

 鬼頭は大きな溜息を吐く。

 苛立たしげに吐き捨てた。

「全く……」


「お前みたいな屑が、いつも俺の邪魔をする」



 

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