第一幕 雨 ④
康峰は箸と口を動かす。
病院の地階にある食堂だった。
もうここに来るのも慣れてきた。ここの食事は学食よりは口に合う。それでも今日は何も喉に通る気がしなくて、最も安いイワシ饂飩をひとりで啜っていた。
鬼頭の病室を離れてここに来た。昼過ぎの中途半端な時間で他に客もいない。遠目にレジの向こうで動き回っている店員の中年女性が見えるだけだ。地階なので雨の音も入ってこない。ほとんど自分の箸を動かす音と、
脳内には鬼頭の言葉が繰り返している。
あの鬼頭員敬が涙を浮かべるなど予想だにしていなかった。だが今更ながら、当然のことながら彼もひとりの人間だということを気付かされる。
鬼頭はもう何年もこの不条理な島で、学園で戦い続けてきたのだ。それもひとえに生徒の、子供たちのためを思って。
康峰に鬼頭を責める気持ちは微塵もない。もともと碌な覚悟も信念もなく、給料のために教師になった自分にそんな資格があるとも思えない。むしろ鬼頭に頭まで下げられて申し訳ないばかりだ。
それでも——
自分がこれから何をすべきなのか。
靄が掛かったようにはっきりと見えてこない。
——いや。
見えている。
見えてはいるが、それをやる勇気が、やり遂げる自信がないだけかもしれない。
殺人バット事件の全容。
夜霧七星の自殺の真相。
荻納衿狭の消えた理由。
これらの関係性ははっきりとしない。或いは無関係かもしれない。
だが康峰にはどうしてもそう思えなかった。
確かなのは——何か、得体の知れない何かがこの島を覆う霧のなかで蠢いているということだけだ。
——だが、それを俺がどうにかできるのか?
康峰は箸を止める。
丼のなかにはイワシの切り身が浮いている。それを箸で避けようとして、ふといつかの風景を思い出した。
『俺とお前は確かに別の人間だ。いくら言葉の上で通じ合っても分かり合えない部分はある。これは理屈じゃない。だがこうして重なる部分も出てくる。人の手助けをすることで自分にとっても意味のある結果が産まれることもあると思わないか?』
この学園に来た当初、自分が言った言葉だ。
あのときは先達を利用するために適当にどこかで聞いたようなことを言っただけだったが。思えばあれが始まりだった。
『けど俺たちだって霞を喰ってるワケじゃねえ。無事生きて学園を卒業できりゃそりゃその後の人生ってもんがあるだろうがよ。んなことも言われなきゃ気付かねぇのか、『センセー』?』
『先生はどう? 隠しごと。——何もない?』
『先生の授業に出てみて、私は間違っていたと思った。先生の授業に出るみんなはとても楽しそうだ。いままであまり見なかった顔をしてる。私も楽しい。こんな日々が続くならとても嬉しいと思う。全部先生のお蔭だ』
ぽつぽつと、雨粒が頭上に落ちるように。
生徒たちの言葉を思い出す。
そのときの情景、彼らの表情、声が鮮明に記憶に蘇ってくる。
この島にくるまで、鴉羽学園の教師になるまでついぞ触れることのなかった感触。
彼らは——
『僕だって覚悟はしてます。たとえどんな結果になったところで後悔はしませんから』
『僕はいつでも……正しいことをやろうとしなかった。分かっていても、それを踏み出す勇気がなくて……』
鴉羽学園は
そう思っていた。
いや、思おうとした。
だが——
彼らはあくまで、普通の子供だ。
恋をしたり、失敗して悩んだり、藻掻いたりしている普通の子供とそう変わらない。
康峰はふぅ、と深い溜息を吐いて箸を置く。
からん、と箸が安っぽい音を立てる。
何ができるかなんか関係ない。
今更——
後に退けるわけがないよな。
俺は——この学園の教師なんだから。
あの子たちの《先生》なんだから。
傘を差し、雨の降り続く病院の外へと踏み出す。
霧と雨に覆われた道を、康峰は足早に歩いた。
——まだだ。
こころのなかで、念じるように呟く。
そうだ。
まだ何も、終わっていない。
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