第一幕 雨 ③

 



「度々足を運んでもらって申し訳ないですな。先生には迷惑を掛けてばかりだ」

 鬼頭きとう員敬かずたかはベッドの上に巨体を横たわらせたまま言った。

 鬼頭の病室は衿狭と別の階にある。康峰は何度かここに来ては状況報告をしていた。

 殺人バットに扮した衿狭と戦った鬼頭は肋骨を折るほどの怪我を負っていたが、歴戦の勇士である鬼頭本人は入院しなくても問題ないと言ったらしい。だが医者の説得に従いこうして入院している。

 実際ほとんど回復しているようにも見えるが、それも元々この男の肉体が堅牢だからかもしれない。

「こちらこそ病人に何度も話をさせるようで申し訳ないですよ」

 康峰は鬼頭の傍の丸椅子に座って言った。

 実際、いまの康峰は先達たちから逃げてここに来たようなものだ。

「まさか。ここはあまりに退屈でしてな。話し相手がいてくれてありがたい」

 康峰はそれから煉真捜索の状況や衿狭の容態を話した。

 だが前回報告した段階から特に変わったものはない。話はすぐに終わり、雨音だけが病室を包み込んだ。


「……こんなときに、少し訊きにくいことではあるんですが」

 康峰は躊躇いがちに口を開いた。

「何でしょう?」

 鬼頭は首をこっちに傾けた。「遠慮なく訊いてください」

「数か月前に亡くなった生徒のことです」

「む……」

「鬼頭先生は私がこの学園に就任したとき、生徒が不登校を始めたきっかけを話してくれましたよね? 確かに殺人バットの件も一枚噛んでる。でも夜霧七星の自殺の未解決こそ本当の原因だったのではないんですか。どうしてあのとき——」

 嘘を、と言いかけて言葉を切り替えた。

「——本当のことを話さなかったんです?」

 鬼頭は瞼を閉じ、口を堅く結んだまま黙っている。その表情が何を意味するのか康峰には分からない。

 雨の音だけが病室を包む。

 やがて鬼頭はおもむろに口を開いた。

「それについては申し訳ない。咄嗟に——こう、嘘が出てしまった。本当のことを先生に話すのが怖くなったのかもしれませんな」

「怖くなった?」

「夜霧七星が早朝の校舎から飛び降りて自殺したことは知ってますね?」

「はい」

「その第一発見者は私です」

「えっ」

 康峰は思わず椅子から腰を浮かさんばかりに驚いた。

「日課のようなものでしてな。毎朝訓練の前に校舎の周辺を歩いて回っているのです。遠目にもすぐに気付いた。それはもう酷い有様で、すぐに天代守護に通報した。生徒が現場を目撃するより早く現場を囲えたのは不幸中の幸いと言うか、とにかく見られなくてよかった。辺り一面血が飛び散り、肉も……男か女かも分からない有様で……」

 言葉の最後の方は震えていた。

 閉じた瞼も小さく痙攣しているように見える。

「落ちていた生徒手帳から辛うじて夜霧七星のものと判別できました。その後の天代守護の調査でも死んだのは彼女で間違いない、と。夜霧七星——あの子はマガネとの戦闘には向いていないが、隠れた才能を持っている子だった。私なりに目を掛けたつもりだったが、まさかあんな形で終わりを迎えるとは」

 鬼頭は悔しそうに唇を噛み締めた。

 指導者として、彼なりに自分を責めているのかもしれない。

 康峰はその横顔を見ていることしかできなかった。


「私はあの子の自殺を止められなかった。相談されたこともあったのに。青色の連中からいじめを受けたときも私はちゃんと守ってやれていなかった。いじめの主犯格が消えて、ともあれこれで一安心だなどと油断した矢先の事件でした。今更言ってもどうにもならないが、他にやり方がなかったものかと……」

「鬼頭先生、それはもう——」

「いや、軛殯くびきもがり先生、私は無力です。見掛け倒しの無力な男だ。そのことを私自身が一番よく自覚している。今回の件だってそうだ。殺人鬼を取り押さえようなど息巻いて、間違った相手を怪我させてしまった。とんだ無能です。これで荻納がもし死んでしまったら、私はどうすればいいのか」

「あの子はきっと回復しますよ」

「それでも、私が犯した過ちが軽くなるわけではない。つくづく自分の非力さが恨めしい。生徒が登校しなくなるのも、教師を信用できなくなるのも私の力不足故です。最初先生に会ったとき夜霧のことを話さなかったのは、そんな己の過ちと無能さに直面したくなかったからに他ならない。先生には本当に申し訳ないことをした」

「別に私は……」


 康峰はそこから何も言葉を継げなかった。

 あまり自分を責めるな——なんてありきたりな台詞を口にするのは躊躇われた。

 最初に鬼頭と会った日を思い出す。いかにも堅牢な巨体の持ち主で、その風体は自信に溢れて見えた。康峰と正反対の人間だ。

 いま目の前のこの男は、あのときよりずいぶん小さく見える。


『だってそうでしょう。確かに彼らのお蔭で我々はあの化物どもと戦えるが、それなら使徒自ら前線に立って戦えば済むことだ。裏でコソコソと隠れて子供たちに武器を配って、自分たちは安全な高いところから見物している。厳重な警備をされてね。私にはそれが我慢ならない』


 鬼頭はそんなふうに言って使徒を憎んでいた。

 だがいま思えばそれも、生徒たちを守れない自分への不甲斐なさの裏返しなのかもしれない。

 やがてぽつりと鬼頭が呟いた。

「私は近々教職を辞するつもりでした」

「えっ」

 再び康峰は驚きの声を発した。

「私にこの学園の教師は荷が重い。いままで大勢の生徒を見てきましたが、私にできることもないまま多くが死んでいった。夜霧七星の件や荻納衿狭の件だけじゃない。もう何年もこんなことを続けてきた。つくづく私にできることがないと痛感してきました。マガネに襲われることなど何でもない。激務も重責もなんてことはない。ただ自分のやってきたことに全く意味がないという現実を突きつけられたとき、もう耐え切れなくなるのです……」

 不意に鬼頭の目尻が光った。

 鬼頭員敬は泣いていた。

「ここに残る先生にこんなことを話すのは非常に忍びない。せめてもう少し、先生がこの学園に慣れるまではと思っていたが、どうやらそれまで持ち応えられそうにない。すみませんが、後を頼みます、先生」

「鬼頭先生……」

「いや、もし先生も耐え切れないなら無理にこの学園に縛られることはない。私にこの重荷を押し付ける資格はありませんから。それでももしこの学園に残る気があるのなら、どうか」

 鬼頭は首を捻り、康峰のほうを見て言った。

 雨音にも消えるような、震える声で。


「どうか——あの子たちを……」



 

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