第一幕 雨 ②
「……それで?」
康峰は言った。
なるべく、感情を殺した声で。
「別に荻納さんに口止めされてたわけじゃない」
先達は独り言のような静かな声で話す。
「ただ、彼女は夜霧さんと仲が良かったから、あまりこの話題に触れたくなかった。夜霧さんが不審な死に方をして一番気に病んでたのは彼女だから」
「夜霧七星は青色の生徒にいじめに遭っていた。そのいじめっ子が失踪してひと月しないうちに夜霧七星は自殺した——そうだったな?」
「ええ。僕もその現場にいました。朝一番の校舎の屋上から飛び降りて、現場は死体が……こう、ひどい状況だったそうです。ブルーシートに囲われてたし人が大勢いて見えなかったけど、血が飛び散ってたのは僕でも見えた。荻納さんはずいぶん取り乱してました」
康峰は黙って先達が言葉を紡ぐのを待った。
「……その後、天代守護や青色の生徒が原因を調べたけどはっきりとは何も分からなかった。いじめの主犯格は失踪したままだし、いじめに関わった他の連中も特にお咎めを受けることもなかった」
先達が少し声を強くした。
「こんなはっきりしないまま処理されるなんて酷過ぎる。だから会長——
「あたしらはそれにビンジョーしたって感じ」
綺新が少し舌を出して言った。「あんなふざけたガッコー行くの、そろそろ限界だったしね」
ふざけたふうに言っているが、彼女たちも七星とは親しかったかもしれない。衿狭が青色に拘束されそうなときにあれだけ体を張った彼女たちだ。友達が意味も分からず死んで平気でいるとは思えない。
「だが、結局数か月しても夜霧七星の死の原因ははっきり分からなかったわけか」
先達が頷く。
「ええ。正直みんなもう疲れてたんじゃないかと思います。学園と揉めるのも、夜霧さんの自殺の真相を解き明かすのも。そんな頃に先生が来ましたから」
康峰の説得をきっかけに再び学園に来るようになったということか。
——無理もない。
少し薄情に聞こえるかもしれないが、実際に数か月も学園に抵抗を続けるのはとても大変だ。むしろそれだけよく抵抗したと言えるかもしれない。
「ただ荻納さんだけは、まだ諦めてなかったみたいだけど……」
「でも、これ以上捜しようないじゃん? あたしらもいい加減忘れて気持ち切り替えようっていろいろ言ったんだけどねー、エリって頭固いから」
「もぉ、『忘れて』なんて言ったらエリちゃん、また怒るよ?」
夢猫の言葉に綺新が肩を竦めた。
「……何故言わなかった?」
康峰は低い声を発した。
先達たちの目がこっちを向く。
三人とも訝しげな表情をしている。
康峰は続けた——なるべく、感情的にならないように。
「俺は夜霧七星のことなんて誰からも何も聞かされてない。鬼頭先生からも、お前たちからもな。それがたいして重要じゃないってんならいい。だけど聞いてみたらこの学園の不登校の原因にも殺人バットにも大きく関係してる——多分、荻納の失踪にも。どうしてそんな重大なことを今まで黙っていた? 俺に話しても意味ないと思ったか?」
「先生、それは——」
「いいか、聞け。お前らがそうやって隠しごとをしてたから俺もここまでたどり着くのに時間が掛かった。それがなければもっと早く真相に辿り着けたかもしれない。荻納の失踪の原因も分かって、こんなことになる前に」
先達の瞳が大きく揺れた。
康峰はそこでようやく言葉を止めた。それ以上言うのを呑み込んだ。
重い沈黙が待合室に落ちた。
言うべきではなかったかもしれない。
いや、きっと言うべきではなかっただろう。少なくともいまの彼には。
それでもどうしてか口から喉から言葉が溢れてくるのを止められなかった。自分でもどうしてかよく分からない。
先達は黙っている。その目が伏せられた。
何か言うべきか迷うようにその目線が彷徨った。
「どうした、先達。何かあるなら——」
「言うわけないじゃん」
不意に綺新が言った。
康峰は顔を上げて彼女のほうを見る。
「……何だって?」
「そのままの意味だけど。センセーって言ったって、つい最近知り合ったばっかだし。逆になんで何もかも話してもらえると思ってんの? センセーがどんな人かも知らないし。サガッキーだってエリだってそれは同じでしょ」
綺新はそう言ってそっぽを向いた。
その横顔に何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこない。
——そんなことは……
いや。
その通りだ。
彼女の言う通りだ。自分はどこの誰だか分からないひとりの大人に過ぎない。いくら教師と言っても素性も知れない相手にそうべらべらと秘密を打ち明けるはずがない。自分が逆の立場でもそうだっただろう。まして自分は金目当てにこの学園の教師を引き受けたような人間だ。
教師と名乗るのも
そんなことは最初から分かってた。
分かっていたはずなのに——いつしか勘違いしていた。生徒たちが徐々に授業に出るようになって、少しずつ打ち解けて行って、いつの間にか自分を一人前の教師と錯覚してしまっていた。
——馬鹿げてる。
生徒がこころを開いているとでも思ったのか。
生徒との間に信頼関係が生まれていると思ったのか。
自分なんかに——
そんなわけがないのに。
「すみません……先生の言う通りだと思います」
先達が口を開いた。
だがその声は固く、重い。
「荻納さんが抱えているものを相談していたら、こんな事態は避けられたかもしれない。少なくとも僕は先生に相談しようと思ってた。それを決断できなかったのは僕の優柔不断の所為です。少しでも出来ることをやるべきだったのに……」
「沙垣君は悪くないよ。やれることやってたでしょ? エリちゃんも絶対そう思ってると思うなぁ」
夢猫が先達に優しく言ったが、先達は頭を振った。
その声が次第に湿り気を帯びて行った。
「そんなことはないです。僕はいつでも……正しいことをやろうとしなかった。分かっていても、それを踏み出す勇気がなくて……」
消え入るように言った最後は、涙で掠れていた。
夢猫と綺新も何と言葉を掛けていいか分からないように先達を見ている。
康峰も黙ってそれを見ているしかできなかった。
こんなとき何と言葉を掛けてやるべきかも分からない。
この体たらくで教師を名乗ってたなんて——笑わせる。
康峰は視線を泳がせたあと、逃げるように待合室の扉を開け、廊下に出て行った。
綺新と夢猫がそんな背中をどんな目で見ているか。考えたくもない。
静かな廊下に康峰の足音が反響する。
窓を叩く雨音は単調に響き続けていた。
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