第七幕 ふたりの殺人鬼(後篇) ②
「
鬼頭
ヘルメットの奥から獣じみた唸り声が発せられた。腕に力を籠めるが、鬼頭は全く怯む様子もなくそれを押し返す。
「うおおおおおっ!」
鬼頭は雄牛のような猛り声とともに相手の体を押し飛ばした。
彼女は大きく態勢を崩したが、後ろに跳んで倒れるのを免れた。
「き、鬼頭先生!」
はっとして先達は叫んだ。
鬼頭員敬は
相手が禍鵺でなく人間なら、そして《
それだけに——
いまは彼女のほうが無事で済むとは思えなかった。
咄嗟に叫んだのは鬼頭の身を案じてではなく、むしろその逆に近かった。
先達の声が聞こえたか聞こえなかったか、鬼頭は振り向くこともなく殺人鬼に向かって踏み出した。
彼女もまた鬼頭を睨み据えている。
こころなしか先ほどまでより更に平静を失い攻撃的になっているように見えた。
「かかって来い、人殺しがぁぁっ!」
鬼頭の地響きを起こす怒声に共鳴するように、《殺人バット》が地面を蹴った。
的確に鬼頭の目や喉を狙って切っ先を振り回す。鬼頭はそれを躱し、不意に右腕を突き出した。ナイフの刃が鋼鉄の剛腕を襲う。
途端、耳を劈く金属の悲鳴とともにナイフが宙を舞った。それは激しく回転しながらふたりの頭上高くまで飛んだ。
武器を失いたじろいだ黒スーツは咄嗟に体を捻って鬼頭の側頭部を蹴り上げた。
それは見事に命中した——が、鬼頭はほとんど気にするふうもなく逆にその足首を掴む。肩の筋肉が山のように盛り上がる。そのまま彼女の体を持ち上げた。
人一人の肉体が、軽々と宙に持ち上げられた。
「ふんっ——」
刀を振り下ろすようにして彼女の体を地面に振り下ろした。
人並外れた筋力に金属の剛腕がなければ不可能な芸当だ。
少女の体がアスファルトの地面に容赦なく叩きつけられる。
「…………っ!」
身を仰け反らせて声にならない声をあげる《殺人バット》。鬼頭はそれを見てほんの一瞬気を緩めたのかもしれない。
先ほど弾け飛んだナイフはまだ中空を回転している。
不意に、彼女が地面に転がったままの金属バットを掴んだ。ちょうど彼女の傍らにそれは転がっていた。
身を起こしざまに金属バットを鬼頭の胸元に叩き込んだ。
流石に鬼頭の表情が歪む。
激痛に足が一歩引いた。
だが、それでも怯むことなく逆に手を伸ばして金属バットを握る相手の腕を掴んだ。逃げられないようにその身を引き寄せる。
その足元に——
宙で回転していたナイフが、甲高い音を立てて落下した。
すかさず鬼頭はそのナイフを拾い上げる。
銀の光がきらりと光を跳ね返した。
——まさか。
先達は無意識にふたりに向かって飛び出していた。がむしゃら手を伸ばす。
だがその手が彼女に届くより早く、鬼頭はナイフの柄を掴んでいた。
「これで終わりだ!」
鬼頭が唾を飛ばして刃を振りかざす。
その腕に先達はしがみついて叫んだ。
「待ってください! 彼女は——」
先達は何度も反芻する。
あのとき自分は何と言おうとしたのだろう。
どんな言葉があればこの鬼教官の行動を制止できたと言うのだろう。
きっとどんな言葉もいまの彼の耳には届かなかった。彼の頭にはただ何人も生徒を殺し、学園を恐怖に陥れた卑劣な殺人鬼を一刻も早く始末することしかないのは明らかだった。
そんなことは分かっていたはずなのに。
彼が次に何をしようとしているかも予想がついたはずなのに——
口を動かす暇があれば彼を殺してでも止めるべきだった。
そう、比喩でも誇張でも何でもなく、誰かを殺してでも。守るべきだった。
自分には何が一番大切で、何を失ってはいけないか分かっていたはずなのに。
あのときの自分に——
もっとその勇気があれば。
もっと。
——自分を信じることができていれば。
鬼頭は先達の腕を振り切り、ナイフを突き下ろした。
あっと叫ぶ暇もなかった。ただしがみついた金属の腕を引き、わずかにその軌道をずらすことだけがその瞬間先達にできた精一杯だった。
それでも鬼頭の振るったナイフは相手の腹部を深々と刺していた。
漆黒のスーツの下から鮮血が迸った。
「————っ……!」
少女が空を仰いで悲鳴をあげた。
「ああああっ! ——そんな! そんなぁっ!」
先達は飛び出して彼女の体を両腕で支えた。
体の震えが止まらない。視界が黒と赤に染まってすべてが揺れて見える。その体が重いのか軽いのか、分からない。暖かいのか冷たいのかも分からない。何もかも分からなくなるなかでただ闇雲に叫び続けた。
血がどんどん両手を濡らし、体を濡らし、地面を染めた。少女の腹部を刺した刃は容赦なく彼女から血を奪っている。
「嘘だ、そんなどうして……」
先達は無意識にそのヘルメットを外した。
さらりと黒髪が流れた。
白い顔がいつも以上に蒼白になり、口からも血を吐いている。虚ろな目が
それでもそれはやはり。
先達のよく知る。
この数日、一瞬でも早く見たいと思っていた。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
嘘だ。こんなのは間違いだ。こんなことが起きるわけがない。
どうして。どうして——
「——っ、そんな……」
かすかに鬼頭の声が聞こえる。だが呆然としたその声もいまの先達には遥か海の向こうから聞こえるようだった。
同じくらい遠くに誰かが自分を呼んでいる声も聞こえる。無線機から繰り返し聞こえるその声も先達にはどうでもよかった。
「……誰かっ」
ようやく先達は自分のすべきことに気付いたように周囲に目を向けた。
「誰かぁ、助けてくれ! 彼女を、荻納さんを、助けてやってくれぇぇっ!」
遠くから見ていた野次馬が互いに顔を見合わせたり、どこかに走ったりするのが見える。無線を拾う者もいる。
だが、もし救けが来たとしても……
——もしかしたらもう。
先達は耐え切れず固く瞼を閉じた。
歯が砕けるほど強く歯を食いしばった。
何も見えない闇のなかで、ただただ衿狭の無事を祈ろうとした。
だが、どんなに闇を深くしても——
そこにあの日見た彼女の笑顔は浮かんでは来なかった。
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