第七幕 ふたりの殺人鬼(後篇) ①

 


 足元の水溜まりで水飛沫が跳ねるまで、沙垣先達は自分が無線機を取り落としたことにさえ気付かなかった。

 視線は歩み寄る殺人バットに吸いつけられたままだ。ついさっきまで恐怖の対象でしかなかった人物は——いや、いまでもそれには違いないが、別の意味を持って先達の脳を内側からハンマーで叩きつけているようだった。まだ金属バットの一撃を食らったわけでもないのに頭のなかは轟々と鳴り響いている。


 直感だった。

 先達は目の前の人物の正体を理解した。

 その足取り、スーツに包まれても見える体形、それにヘルメットのなかに一瞬見えた瞳——

 あらゆる欠片が、切れ端が、集合してその正体を物語っていた。

 他の誰でもない先達だからこそ、その断片を集めることが出来たのは恐ろしいほど皮肉に思えた。


 ずりずりと金属バットの頭が地面を擦っている。

 殺人バットの肩は大きく上下し、呼吸を乱している。

 相手が誰であれ普通の状態でないことは見れば分かった。

 先達は以前テレビで似たような人を見たことがある。何かの本で読んだこともある。彼らの目線は虚ろで足取りも覚束なく、まるで目の前にいるのに全然違うところを見ているように不気味な恐怖を先達に与えた。

——薬物だ。

 誰かが彼女に薬物を与えたんだ。でなきゃこんな状態になるはずがない。

 先達は呼吸が荒くなるのを抑えられなかった。恐怖だけでなく、いままで感じたことのない怒りが腹の底から湧き上がってくるようだった。

 誰がそんなことをしたのか分からない。そいつを見つけたら自分は殺してしまうかもしれない。

 だがいまは——


「おい、下がれ!」


 突如背後から飛び出してきた二人の青い外套が先達の前で翻った。

 彼らの顔に見覚えがある。青色生徒会だ。

「殺人バット……で、どうやら間違いないみたいだな……」

「やるんですか、先輩?」

 片割れがやや不安そうに言った。

 もう一方と比べやや及び腰に見える。

「応援は呼んだ。だが来るまで時間が掛かる。せめて時間稼ぎでも俺たちがやるしかない、腹を括れ!」

「で、でも……勝てますかね?」

「頼りないこと言うな、何のための《冥殺力めいさつりき》だ?」

 男は振り返って先達を見下ろした。

「お前は下がってろ。邪魔はするなよ」

「ま、待ってください!」

 先達は思わず叫んでいた。

 だが、先達がそれ以上何か言うより早く、《殺人バット》はふたりに襲い掛かっていた。バットを手前の男に振り下ろす。

 青い炎が奔った。

 激しい一撃を男は鉄刀で難なく受け止める。脚を上げて《殺人バット》の懐を蹴る。身を捩らせて相手はそのまま下がり距離を取った。警戒するように少しずつ後ずさる。

「妙だな。ずいぶん歯応えがない。本当にあれが殺人バットか?」

「えっ? 何言ってるんですか?」

「——いや、まぁいい。とにかく行くぞ!」

「待ってくれ!」

 先達は張り裂けるような声で叫んだ。

 踏み込もうとした二人の足が止まった。

 二人は戸惑いの表情でこっちを振り返る。

「何だ? まだいたのか、お前?」

「お願いです。あの人は——この殺人バットは、本物じゃない」

「はあっ?」

 先達の咄嗟の言葉に男は当然と言える反応を見せた。この状況では何を言っても通用しないかもしれない。だが自分が何とかしなければ——何とかして——

 駄目だ。先達はどう言って二人を牽制すればいいのか、全く思いつかなかった。

「何を言ってる。お前はこいつの味方か? 殺人バットの仲間っていうのか、えぇ?」

 男が鉄刀をびしりと先達に向けた。もう一人も疑わしげに先達を見ている。

「ち、違う。そうじゃなくて……」

「何ならお前から黙らせてやろうか?」

 男の意識は完全にこっちを向いていた。

 彼の背中に向かって漆黒のスーツが飛び込んだ。


「先輩!」


 もう一人が叫ぶのと重なり、振り返ろうとした男の横っ面が金属バッドで思い切り殴られた。

 飛び散った赤い液体が先達の頬にまで飛んだ。

 男は血の混じった飛沫をあげて水溜まりに倒れ込んだ。

 そのままぴくりとも動かなくなる。とめどなく顔面から流れる血が水溜まりを赤く染めていった。

 彼が殴られてからもう一人の青色が叫んでいることもしばらく先達の鼓膜には届かなかった。まるで音や景色がいっぺんに消し飛んだようだ。残された青色は先輩、先輩とその体に縋りついたが、反応は返ってこなかった。

 その背後で金属バットが持ち上げられる。


「危ない——!」


 先達が咄嗟に口走ったのに反応したか、本能的に危険を察知したか、青色は素早く振り返って振り下ろされた一撃を迎え撃った。

 金属バットが鉄刀を叩く。

 だがさっきほどの勢いがない。男は金属バットを受け流すと、相手の胸元を掴んで引き寄せた。

 訓練された鮮やかな動きでその体を地面に押し倒す。再び水飛沫が上がった。金属バットが手から離れた。男は素早く相手に馬乗りになった。

 流石は青色生徒会だ。

 動揺していてもこのくらいは戦えるらしい。

 《殺人バット》は彼の手を逃れようともがいているが、この体勢では到底抵抗できるものではない。まして相手は《冥殺力》を発動している。例え大柄な男でも彼の手を跳ねのけられる道理はなかった。

 もちろんこの《殺人バット》が噂通りの本物なら彼も《冥殺力》を使えるはずだが、青い炎は仄かにも見えない——それを疑問に思う冷静さは目の前の彼にはない。

「くそっ、ふざけやがって……!」

 彼女の首を絞める手に力が籠められた。

 《殺人バット》の首が仰け反る。

——まずい。

 彼は怒りに我を忘れてる。このままでは彼女を殺しかねない——

 先達が踏み出そうとすると、彼の目がこっちを睨んだ。

「動くな! お前も!」

「違う、僕はただ……」

「動くなよ! まずは連絡を——」

 男が先達を見据えたまま懐から無線を取り出そうとした。

 その間に《殺人バット》の手が動いた。きらりと光るものが彼女の腰から抜き出される。

 先達がそれに気付いたときには、青色の太ももに彼女の握ったナイフが突き立てられていた。


「ぁああああああっ……!」


 絶叫とともに鮮血が噴き上がった。

 暴れる男を《殺人バット》が蹴り飛ばしてその下から逃れた。

 肩で息をしながら彼女が起き上がる。男はまだ地面でのたうち回りながら島じゅうに響き渡りそうな悲鳴を上げていた。

 フルフェイスのヘルメットが先達のほうを向いた。

「…………」

 言葉が出てこなかった。いま、目の前で起こっていることに現実味が感じられない。

 だがいまから起ころうとすることは容易に想像できる——目の前の正気を失った人物は残る先達をも手に掛ける気だ。そして先達には武器のひとつもない。

——僕は彼女に殺されるのか?

 とんだ悪い冗談だ。だがどうする。言葉が通じるとは思えない。彼女に背を向けて逃げるとしても逃げ切れる保証はない。

 いや、そんなことをして彼女がどうなるか分かったものじゃない。ここで彼女を置いて逃げるなんて、自分には出来ない。

 どうすれば。

 どうすればいいんだ?

「僕だよ! しっかりしてくれ! 分からないのか?」

「…………」

 先達の声は空しく素通りするだけだった。

 《殺人バット》が青色の脚からナイフを引き抜く。

 一段と大きな悲鳴が響き渡った。

 それを全く気に掛ける様子もなく、殺人バットの恰好をした彼女はこっちに踏み出す。一歩、一歩と先達との距離を詰める。

 ちりん——と鈴が鳴った。

 彼女がこっちに向かって地面を蹴った。

 身構えた次の瞬間、先達の視界が大きく揺れた。

 頭を地面にぶつける。泥水が頬を濡らした。頭のなかを揺さぶられるような痛みを覚えつつ、しかしナイフで切られたわけではないことは理解した。もし切られていたらこんな痛みで済むはずがない。あの凶器が自分を襲う直前、何かが横から飛び出してきて自分を張り倒したのが見えた。

——何が起こった?

 先達は目を上げた。

 山のように大きな背中が眼前にそびえている。厚い筋肉の壁そのものの体に、わずかな陽光を跳ね返し煌めく金属の右腕。それがナイフを受け止めていた。

 先達と《殺人バット》の間に割り込んだ鬼頭きとう員敬かずたかが低く唸った。


「退がっていろ、沙垣。こいつは俺がやる。……これ以上、生徒は傷つけさせん」



 

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