第六幕 ふたりの殺人鬼(前篇) ①

 

 



 男と女の怒鳴り合う声。

 狂ったように吼え続ける犬。

 通りを走るパトカーのサイレン。

 聞き飽きたあの喧噪。


——またあの夢だ。

 灰泥はいどろ煉真れんまはずるずると何かを啜る音で目を覚ます。

 寝惚け眼で、目の前で何かを貪る男を見る。

 いつもの夢と同じ——体は幼い頃のままだ。

 だったら次に何が起こるかも分かる。

「俺たちは使徒に感謝しなくちゃいけねえな。マガネにも」

 兄が言った。

 いつもの、あの夢のなかの言葉。

 見回すと、暗い部屋で男が頭から血を流して倒れている。父だった死体のうえで兄がピザを貪っている。手も口元もべたべたに赤く汚しながら。


——なんでまたあの夢を……

 きっと最近殺人バットを追いかけていたからだろう。奴の居場所を探ろうと島のなかを飛び回った。その所為で奴がまた夢に現れたに違いない——まだぼんやりする頭のなかで、煉真は思った。

 だが——

 次に兄が口にしたのは、いつもと違う科白だった。


「順番は守ってるか?」


 兄はそう言った。

「順番……?」

 何の話だ?

 窓の外は相変わらず霧が覆っている。

 これほど霧が濃くなるのはこの島じゃ雨上がりのいつものことだ。

——この島? 霧?

 妙だ。

 そういえば——さっきまで聞こえていたあの喧噪も消えている。ぴたりと音がやんで不気味なほど静かだ。


 煉真は唾を飲んで言った。

「何で人を殺すの?」

 自分でもどうしてそんなことを訊いたのか分からない。

 だがこれはいつもの夢と違う。そんな自覚が、何か煉真にもいつもと違う言動を取らせていた。

 兄が目を上げてこっちを見る。

 鋭い目で睨みながら言った。

「俺は殺してねぇ」

 嘘だ、と思った。

 だがうまく言葉が出てこない。

「お前はそもそも一番大事なことを履き違えてんだよ。分かるか? いっつも俺が言ってるだろ。なぁ、おい。分かるか?」

 分かる——わけがない。

「どういうこと?」

 煉真は訊いた。

 その質問は危険だと気付きながら。

 兄は質問を無視して、窓の外を見た。

「……少し歩くか」

 ぴしゃりと血溜まりを踏む音とともに兄が立ち上がった。

 玄関に向かいながら振り返る。

「ついて来いよ」



 煉真は町を歩いていた。

 やっぱり光景はおかしい。ここは自分の住んでいた町じゃない。だがここがどこなのか、ほとんどが霧に吸い込まれた情景からは判断できない。

 ただ一心に、前を歩く兄の背中を追って歩き続けた。

 兄はのんびりとした足取りで口笛さえ吹いている。

 調子っぱずれな口笛の音色が霧のなかを響き渡る。

 やがて兄が言った。

「いい島だなここは。気に入ったぜ」

 よく知りもしない癖に——煉真は思った。

 煉真は唇を舐めた。肌がじんわり湿っている。

 気味の悪い感触だ。

 唇を舐めて言った。

「さっきの質問に答えてねぇだろ。何で人を殺してる?」


 煉真の背丈はもう幼い頃のままではなかった。目の前を行く男を見るのに目線を上げる必要もない。まっすぐ前を見て言った。

「さっきの質問? 何か言ってたか?」

——ふざけやがって。

 こいつは俺の質問にまともに答えるつもりはないらしい。

 煉真は一旦質問の矛先を変えた。

「いつからこの島にいる?」

「ずっとだ」

「何だって?」

「俺はずっとこの島にいる」

「そんなわけねぇだろ」

「何でそう言える?」

「この島は厳重に警備されてんだ。外から入ってくるのも簡単じゃねぇ。特にお前みたいな人殺しのイカれた野郎はな」

「じゃ俺は運が良かったな。こっそり這入るのに成功したぜ」

「本気か?」

「俺はいつだって本気だ」

「俺も殺すのか?」

「なに?」

「順番が大事って言ってたな。その順番とやらが回ってくると俺のこともお前は殺すのかって訊いてんだよ」

 男の足が止まった。

 煉真もその間合いの外で足を止めた。

 視界の隅に橋の欄干が見える。いつしか歩くうちに橋のうえまで来ていたらしい。

「やっぱ馬鹿だよな、お前」

 兄はゆっくりと振り返った。

 いつの間にかフルフェイスのヘルメットを被っている。

 手には毒々しく血を垂らす金属バットが握られていた。


「——そんなことも訊かなきゃ分からねぇのか?」


「……やってみろよ」

 煉真はそれでも足を踏み出した。拳を固く握り締める。

「お前をこれ以上この島で野放しには出来ねぇ。兄弟だろうが、いや、兄弟だからこそ俺がやる。——いい加減決着をつけようぜ、兄貴」

 そのとき、唐突に絹を裂いたような悲鳴が鼓膜を襲った。

 びくりとして煉真は目を向ける。

 煉真の背後に少女が青ざめた顔で立っていた。目は殺人バットを捉えている。後ずさろうとして足を絡ませ、その場に尻餅をついた。

「焦んなよ、レン」

 殺人バットがヘルメットの向こうで笑った。

まだ・・お前の番じゃねえ」

 それがどういう意味か——訊く前に。

 男が少女に向かって地面を蹴った。

——まずい!

 煉真は咄嗟に跳躍し、飛び出してきた兄に思い切りタックルした。

 兄の固い筋肉とぶつかり、煉真は視界が激しく動転するのを感じた。ふたり揃って地面に転がり込む。

 鼻の奥につんとした痺れが広がる。

 一瞬意識が遠のきそうな痛みが襲った。

 だが、お蔭で覚醒した。ようやくはっきりと理解した。

——これは夢なんかじゃねえ。

 頭のなかを覆っていた霧が一斉に晴れて行く。

 いま起きていることは。目の前にいる殺人鬼は。全部本物だ。

 ここは四方闇島よもやみじま

 俺はいま殺人バットと戦っている。

 立ち上がろうとした煉真だがそれより先に兄が起き上がっていた。素早い動作で煉真の太ももにバットを振り下ろす。避ける暇はなかった。

「ぐっ……!」

 激痛に声を漏らす。

 歯を食いしばって立とうとするが力が入らない。まともに動けない。

 幸い少女は霧のなかへ逃げたようだが、安心している暇はなかった。


「おい、あいつ何だ⁉」

「殺人バット?」

「誰か襲われてたぞ!」


 霧が晴れてきた所為で周囲の見通しがよくなり始めている。さっきまでは見えなかった橋周辺の通行人がこっちを見て口々に叫んでいた。

 殺人バットはそれを聞いて通行人に標的を変えようとしていた。

 煉真に背を向けて歩き出す。

「くそっ……」

 このままでは奴がまた人を殺す。

 だがどうしたって足が動かない。

 煉真はせめて通行人に逃げろと叫ぼうとしたが、掠れた声が霧に吸い込まれただけだった。

 悲鳴が上がった。通行人の女性に向けて殺人鬼が駆け出していた。

 そのとき、霧のなかから飛び出してきた何かが殺人鬼の横腹を襲った。

 まるで車両が突っ込んできたかと見紛う勢いで殺人鬼の体は軽々と吹き飛んだ。

 煉真は目を上げる。

 鍋島村雲が立ちはだかり、吹き飛ばした殺人バットに向かって吼えた。


「ようやく捉えたぞ——殺人バット」



 

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