第五幕 雨 ⑤
道行く人たちが少し傘を傾けて空を覗いたあと、傘を閉じて歩き出した。
ひとり、またひとりと傘を下ろす人が増えて行く。
どうやらいつの間にか雨がやんでいたらしい。
うっすらと白い雲の向こうに太陽が見える。
四方闇島では雨上がりにスモークでも焚いたような深い霧が広がる。今日もそんな景色だ。
先達はベンチから立ち上がった。
体は冷えたし腹も減ってきた。衿狭を捜すにしても流石に何か腹に入れなきゃならない。一度寮に帰ろう——そう思って学生寮のほうへ足を向けた。
道端の木から雨の雫が落ちて髪を濡らした。髪を伝って雫が地面へ落ちる。水たまりを踏むとぴしゃりと音を立てて水が弾けた。
「………っ!」
何か聞こえる。
まだ遠いがずいぶん切羽詰まった声に聞こえた。
先達は足を進め、曲がり角を折れようとした。
その途端、向こう側から何かが飛び出してきて先達と衝突した。
踏ん張る余裕もなく先達は水たまりに強かに尻を打ち付けた。
「どっ、どけぇ!」
ぶつかった男——どうやら先達と同年代、つまり
唖然とするうちにぶつかった生徒ははっとして振り向き、何かに怯えるように慌ただしく先達が来た方向へ走った。首だけ振り向き先達に叫ぶ。
「お前もさっさと逃げろ! 殺されるぞ!」
「殺され……?」
「馬鹿!」
男は金切り声を発した。
「——殺人バットだ!」
先達は正面を振り仰いだ。
視界を埋め尽くす白い白い霧のなか、ぴしゃりと水音が響く。ずりずりと地面を擦る金属音が鼓膜を侵す。うっすらと黒い影が近付いて、先達の前に立ち止まった。
ゆっくりと霧が晴れてそいつの姿を見せる。
フルフェイスのヘルメット。真っ黒なジャケット。そして赤い金属バット。
あれほど捜しても見つけられなかった男。
噂の殺人鬼——殺人バットがそこにいた。
「——あ、あ……」
先達は情けない声を発して立ち上がろうとした。だがうまく腕に脚に力が入らない。ただでさえ予期せぬ事態に加えて空腹と疲労の絶頂にあったのだ、そう簡単に動けるはずがない。腰を抜かした姿勢のまま後ずさろうとした。
——どうしてここにこいつが?
いや、いまはそんなことを考えている暇はない。
殺人鬼は無言だ。こころなしかその肩は大きく上下し、酷く興奮しているように見える。ふぅ、ふぅという荒い息遣いが聞こえてくる。ヘルメット越しにその目が自分を捉えていることは間違いない。金属バットを持った腕が振り上げられた。
その腕が力任せに地面に振り下ろされる。
先達は咄嗟に後ろに跳んだ。
そのがむしゃらな動作を「跳んだ」と言っていいか分からないが、ともかく殺人バットの一撃は空振りした。先達は石壁に強か背中を打ち付け、その拍子に懐にしまってあった無線機が地面に転げ落ちた。
——そうだ、無線!
これで康峰に連絡を取らなければ。
殺人バットが現れたことを彼に伝えれば、誰かを寄越してくれる。
間に合うか分からないが、ともかく応援を呼ばねばならない。
殺人バットはまだこっちに追撃する気配はない。先達は無線をひったくるように手に取り、素早く康峰のチャンネルに合わせて怒鳴った。
「先生! 先生、聞こえますか?」
無線はすぐには反応しない。その一瞬一秒がもどかしかった。いまにも殺人鬼が再び襲ってくるか気が気でない。
——頼む、早く出てくれ!
『……先達か? どうした?』
天からの救いのように無線から康峰の声が返ってきた。
「先生、殺人バットです! 奴が現れました!」
『何だと?』
「場所はええと学生寮のすぐ手前の、西に折れた公園側で……とにかくすぐに人を向かわせてください! お願いします!」
先達の必死の声は康峰に伝わったはずだ。
だが不思議と無線の向こうから返答は返ってこなかった。
何だ? 何をしているんだ? どう考えてもすぐ増援を寄越す状況じゃないか。
先達はもどかしくなって再び無線に唾を飛ばした。
「聞いてますか? 殺人バットですよ先生! 応答してください!」
『あ、ああ。聞こえてる』
康峰の当惑した声が返ってきた。
その声の調子に先達は眉を寄せる。
だが、続く彼の言葉はそれ以上に先達を困惑させた。
『なぁ先達。お前が見ているのは
先達は意味が分からず言葉を失った。
何を言っている? まさか自分がおかしくなって幻覚でも見ているとでも言うのか? だがどう見たってこいつは殺人バットじゃないか。この風体、恰好、間違うはずが——
——いや。
どうにも変だ。
殺人バットに直接会ったことはない。以前
だが身長や体格が——どうにも違う。目撃証言と比較しても背は低い。
それにこんな興奮状態にあるのもどこか妙だ。
——こいつが——殺人バットじゃない?
『いいか、落ち着いてよく聞け』
康峰の声が少し跳ねた。
声の感じからして、車にでも乗っているのかもしれない。
『俺は天代守護と車で移動している。ついさっき、何とかって橋のうえで殺人バットが現れたっていう通報が赤色から入ったからだ。いま現場には鍋島や馬更がいる。たまたま一緒にいた天代守護の車に乗せてもらって俺はそこへ向かっている』
「え……?」
『もう一度訊くぞ、先達。お前が見ているのは本当に本物の殺人バットか?』
がしゃり、と音を立てて金属バットが地面に打ち付けられた。
殺人バットが再びこっちに向かって脚を踏み出していた。
いや——殺人バットの恰好をした人物が、だ。
だがそうでないならこいつは誰だ? 何のために殺人バットの姿をしている? 何のために自分を襲う?
いや、逆にもしこいつが本物ならもうひとり現れたという殺人バットは何者だ?
一体何が起きている?
先達、先達——無線の向こうの声が急速に遠ざかっていく。呆然とした先達の視界に金属バットを持った人物の影が大きくなっていった。
近付いたそいつのヘルメットの向こうに光が反射し、その瞳が覗いた気がする。
先達の手元から無線が滑り落ちた。
ちりん——
鈴の音が鼓膜を
『沙垣君——』
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