第五幕 雨 ④
「沙垣君。沙垣先達君、だったよね?」
成り行きで女性をその自宅まで送り届けると、彼女はお礼に先達たちに茶菓子を振舞ってくれた。それを食べながら
——よかった。
先達は学園では影が薄い。もしかすると衿狭に顔を覚えられてないんじゃないかと不安だったが、杞憂に終わった。
「優しいんだね。まぁ、たぶんそうだろうって思ってたけど」
先達ももちろん衿狭を知っていたが、会話したのは初めてだ。それまでの先達は衿狭を美人な子がいるなぁくらいにしか見ていなかったが、こうして間近で会話していると思ったより綺麗で落ち着かなくなってしまう。
「そ、そんなこと……僕は
「勇気? ああ、アイツに喧嘩売ったこと? 別に。ムカついただけだよ」
衿狭の声は涼しげだった。
それは白化病の女性に声を掛けたときも、いまも変わらない。まるで淡々と台本を読み上げているようにも聞こえるし、それでいて薄情で冷酷な響きはない。
どう言っていいか分からないが——言うなれば、どこまでも自然だった。自信がこもっているようにも聞こえた。先達のこれまでの人生にいなかったタイプの人間だ。
そのことがいっそう先達を落ち着かなくさせたが、何とか表面に見せないよう努力した。
「荻納さんは……」
どうして彼女を助けたの、と訊こうとして言葉を呑み込んだ。
自分が凄く間抜けなことを訊こうとしているような気がした。
「ん?」
「いや、何でもない何でもない! これ、美味しいね」
間抜けなことを言って先達はあまり口に合わない茶菓子を口に運んだ。
衿狭はじっとこっちを見たあと、薄く笑ってくれた。
助けた女性は岩下といった。この島にもうずっと住んでいるらしい。とはいえ彼女はまだ四十歳にもならない。見た目は既に還暦を過ぎたような老婆みたいだが、表情や声は確かに年齢相応の若さを感じるときがある。
先達たちは彼女を助けた縁でその後何度か彼女に会って話す機会があった。夫に先立たれた彼女がひとりで住むには広すぎて寂しい家だからと、岩下さんは衿狭が遊びに来るのをとても歓迎していた。
結局先達は衿狭がどうして彼女を助けたのか訊けなかったし、寡黙な衿狭は自分からそれを話すこともしなかった。まるで当然のことだからやったというふうで、確かにそれだけと言えばそれだけかもしれない。
だが、やっぱり先達はあのときちゃんと訊いておくべきだった。
訊かなかった所為で先達の衿狭に対する虚像は日に日に大きくなり、いつも目で追う気掛かりな存在として膨れ上がってしまった。
それまで先達はあまり人を好きになった経験がない。
もちろん気になるとか、付き合いたいくらいに思うことはあっても、先達にはそれがいわゆる一般的な「恋」とかいうのと同じか自信が持てなかった。
——好きっていうのはどういう基準で自信が持てるんだろう。
きっとそんなふうに思う時点で、ちゃんと人を好きになってはいないんだろう。
それでもいつか人をちゃんと好きになるだろう——そう楽天的に構えるうちにもうこの年齢になった。同世代のほとんどは誰かを好きになったり、それどころか付き合ったり、果ては「もうヤッた」なんて豪語吹聴する者さえいる。
彼らの話がどれだけ真実かは置いておくとして、未だにちゃんと「好き」を知らないことに先達は焦りを覚え始めていた。もしかしたらちゃんと人を好きになることが自分には出来ないんじゃないかとさえ思い始めていた。
いつか何かの本——漫画に書いてあった気がする。ちゃんとした愛情を受けて育たなかった子供はちゃんと人に愛情を注げないのだと。
そんなことは信じたくないが——
先達の記憶に両親の存在はない。孤児院の人はよくしてくれたと思っているが、それでもそこに愛情を見出せるかどうかは分からない。
それでも。
いや、それだからこそか。
僕は人とは違うのかな——そんなふうに思い始めていた。
「好き」とか「恋」とか、そういうことを考えるのを諦め始めていた。
そんな矢先に出会ったのが荻納衿狭だった。
彼女は贔屓目にも——たぶん贔屓目にも、どこか他の女性と違って見えた。
「じゃ、また明日。学校でね」
衿狭とは別れ際もあっさりしていた。
彼女はそれだけ言って背を向けて歩き出した。
翌日学園で会ったときも少し微笑んでくれるだけで、特別会話することもなかった。
先達もぎこちない笑みを返すことしかできなかった。
その後、ときどき衿狭とふたりで言葉を交わす機会はあった。
と言っても共通の話題と言えば——岩下さんのことくらいだ。
妙な感じだが、彼女の存在は「ふたりだけの秘密」と言えた。
「沙垣君、見て。これ、岩下さんに貰ったの」
あるとき衿狭が小さなお守りを振って見せた。
確かに猫の鈴が付いていて愛嬌のあるお守りだ。衿狭に似合っていないように見えたが、そんな贈り物を大事に持っている彼女に益々好感を覚えた。
「へぇ、可愛いね」
「ほんとにそう思ってる?」
「お、思ってるよ」
「ふぅん?」
「そ——そういえば荻納さん、また岩下さんとこ行ってたんだね」
強引に話題を逸らした。
本当は猫のお守りなんてあまり見ていなかったから。
衿狭が猫の顔を弄りながらふっと笑みを浮かべた。
「うん。でももう会えないかも」
「えっ? どうして?」
「何となく……ね」
ちりん、という鈴の音が響いた。
岩下さんが亡くなったのはその約ひと月後だった。
はっきりとは聞いていない。だがきっと白化病が進行したのだろう。これも別段珍しいことじゃない。
葬儀は雨のなか行われた。親戚友人は少なかったからずいぶん静かだったように思う。先達は遠くから棺が運び出されるのを見ていた。参列者のなかに衿狭も混ざっていたのをよく覚えている。
先達は傘の下からそんな彼女の横顔を追っていた。
白化病の人を見ると先達はどこか暗い気持ちになる。
別に嫌いとか苛立つとかそういうことじゃない。
ただあまりそういう人を見たくない、関わりたくない。
きっとそれは自分も将来そうなるかもしれないという現実を直視させられるからだろう。先達も十年二十年後にはそうなる可能性が否定できないのだ。
だから白化病の人とはあまり関わりたくない——こころの奥底にそんな思いがある。
卑怯かもしれない。臆病かもしれない。だがそれでも先達はその思いを否定しきれなかったし、たぶん同世代の多くが似たような思いじゃないかと思っている。
でも、衿狭は違った。
自分から進んで白化病の女性を救い、その後も何度も彼女に会っていた。その表情には一切恐れも不安も感じられなかった。それでいて善意を押し付けているような厚かましさも感じず、ごく自然に彼女に接しているように見えた。そんな人は初めてだ。
彼女は一体どうしてそんなことが出来るのだろう。
彼女はいままでどんな人生を歩んできたのだろう。
彼女は何を見て、何を思い、何を考えるのだろう。
先達はいつの間にかいつも衿狭を目で追いかけるようになっていた。衿狭が岩下さんと話すのを遠目に見ているとき、不意に一瞬、それこそ幻覚のように自分と衿狭が白化病になって話している姿が見えた。
そこには恐怖も不安もない。ただ老夫婦のように自然に和やかに自分と衿狭は会話している。
彼女と一緒なら。
衿狭となら——
それは普通の「好き」とか「恋」とかとは別かもしれない。人に話せば笑われるかもしれない。
それでも。
これが自分にとって偽りのない気持ちだ。今までの人生で一度も感じたことのない気持ちだった。
彼女がいなくちゃ駄目だ。
彼女でなきゃ——
駄目なんだ。
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