第五幕 雨 ③
気を引き締めて外に出たものの——
実際、もう
殺人バットの捜索中衿狭と行った場所は昨日改めて捜索した。
衿狭が普段よく行く場所も散々見て回った。
流石に女子寮のなかには遠慮があったが、女子生徒の案内で見られるところは見せてもらった。
それでも、手掛かりはなかった。
仕方なく先達は再び噴水広場のほうへ足を向ける。
ここは
空は不穏な淀みを見せ始めている。
雨が近いのだろう。
広場を歩く。
道行く人たちは先達の気など知らず気楽そうに往来している。
元々島の住人らしい老人もいれば、見回りしているらしい鴉羽学園の軍服も見かける。飯屋の店先では客寄せする元気な店員さえいた。そのどれもが先達には遠い世界から見て聞いているような、まるで自分だけ水面の下を歩いているような錯覚を覚えた。
歩きながら、衿狭の言葉を思い出す。
この二日でもう記憶のテープが擦り切れるほど思い出したあの言葉を。
『もしかしたら私、最初っから間違えてたのかもしれない』
二日前、別れ際に衿狭が言った言葉。
それがあれから何度も脳裏を掠める。
あれは一体どういう意味だったんだろう。
そこに衿狭が消えた謎のヒントがあるはずだが——
考えが堂々巡りするうちに、先達の記憶は、いつも彼女が自分の手を意味ありげに握ったシーンに早送りされる。
『それじゃ——また明日会おうね。沙垣君』
その言葉がいまは残酷な響きを持って先達の耳を撫でる。
結局、衿狭が何に気付いたのか、いくら考えても分からない。
それに——
『本当に気付いてない?』
あの言葉もどういう意味だったんだろう?
衿狭が青色から逃げている途中、トイレで言った言葉。
その真意を確かめる機会は康峰の登場に妨げられた。
「……ちゃんと訊いておくべきだったな」
先達はひとり嘯いた。
嘘だ。もし仮に時間を巻き戻せても——そんなことが可能だったとしても、自分は訊くことはできなかっただろう。
何も忘れていたわけじゃない。二日前、猫工場や他の場所を回る間にも幾度かその言葉を思い出すことはあった。それでも訊けなかった。
不用意なことを訊いて、何かが起こってしまうのを恐れた。
怖かったんだ。
——後悔することばかりだ。
どうして自分はいつもこうなんだろう。
いつも一歩踏み出せなくて、あとになってこうしてくよくよする。
ああすればよかったとか、こうすべきだったとか、意味のない後悔を掌で弄ぶ。
本当はそうじゃない。分かっていても踏み出せない。それがこういう結果をいずれ引き起こすことも、分かっていたはずなのに。
康峰に対してもそうだ。
『お前たちは何かを俺に隠してるんじゃないのか? ……違うか?』
猫工場であの白衣白髪の教師はそう言った。彼は察していたのだ。
もしかしたら既に知っているのかもしれない。
彼女の——
それなら、話しておくべきだったかもしれない。
さっき康峰に謝ったのは、そうしなかったことへの後悔が混じっていた気がする。
もし話していたら、或いは何か変わって——
——まただ。
先達は頭を振った。無意味な思考を断ち切った。
はぁっ、と溜息を吐き出して再び歩き出す。
やがて噴水広場を抜けた。
木々に囲まれた小さな公園に着いた。
次はどうしようかと思ううちにぽつりと水滴が頬に当たった。見上げると小雨が降り始めている。街行く人が駆け出した。じき本降りになるかもしれない。
——少し休もう。
溜息を吐いた先達は申し訳程度に屋根のついた公園のベンチに腰を下ろした。
ぼんやりと道行く人たちを見ながら、雨にけぶる町並みを見ていると、一年ほど前の情景がまざまざと視界に蘇ってきた。
あの日もこんなふうに小雨が肌を冷たくする日の午後だった。
先達は書店にいた。
噴水広場にある小さな書店だ。
単に新刊の漫画を探してだったか、ただぼんやり時間を潰すためだったかは覚えていないが、何気なく店内を歩いていた。店にはまばらに客がいる。
そこをまるで人目を避けるように腰を屈めて歩く白い髪が見えた。
白髪——の割に顔は老いては見えない。
——白化病だ。
とはいえ別段珍しいこともない。
それでも先達が彼女を目で追ったのは、いかにも前を見えていなさそうで危なっかしい足取りだったからだ。あのままじゃぶつかるな。体調悪いんだろうか。そんなことを思っていると、案の定店の出入り口付近で雑誌を読んでいたガタイのいい男にぶつかって後ろに転んだ。
その拍子に後ろの本棚に背をぶつける。本棚が本をばらばらと吐き出した。ぶつかられた男は驚いた顔をして女性を見たあと、忌々しげに舌打ちした。
「気を付けろ、ババア!」
ずいぶんな口振りだ。
男は別段怪我したわけでもないのに対し相手は下手すりゃ怪我じゃ済まない。周囲の人も非難するような目を男に向けてはいたが、誰も声を掛けなかった。女性に手を差し伸べることもなかった。
だがそれは先達も同じだ。
もちろん、手を差し伸べるべきだと思った。近くにいる自分が率先して彼女を助け起こし、落ちた本を直してやるべきだ。
だが人の注目が集まってる。
女性が白化病とはいえ、悪いと言えば悪い。
そんな言い訳が足を阻んだ。
男は気が削がれたのか、読んでいた雑誌をその場に叩きつけるようにして置くと、女性に背を向け店外に出ようとした。
だがその脚がぴたりと止まった。
何者かが彼の行く手を阻んだらしかった。
「ぁあ? お前、何か用か?」
荻納衿狭が男の前に立ちはだかり、凍てつくような視線を男に向けていた。
彼女はぽつりと呟いた。
「最低」
「おい、何か言ったか?」
男の手が衿狭に伸びようとした。
「あーっ! 荻納さん! 荻納衿狭さんだよね⁉」
咄嗟に先達は不自然なほど声を張り上げていた。
衿狭のもとへ駆け寄る。ほとんど無意識のうちの動作だった。
当然視線が集まる。名前を呼ばれた当の衿狭も目を見開いてこっちを見た。こんな状況なのに、間近で見るその双眸はとても綺麗だ。
心臓はばくばくと十倍くらいに膨れた気分だが、それでも先達は何とか言葉を繋いだ。
「奇遇だなぁ! こんなところで何してるの?」
「何って……」
「何だお前?」
男が先達に野太い声を向けてきた。
だが衿狭に一瞬向けた気迫は幾分削がれた気がした。
ふと男は店先の通行人の視線が自分たちに集まっているのを見た。衿狭に対して再び睨んだあと、ちっと舌打ちして彼女に肩をぶつけるようにして店を出て行った。
——うまく行った……
先達はほっと胸を撫で下ろした。
何とか暴力沙汰は避けられた。
全身から汗が噴き出す思いだったがやり遂げた思いもあった。
去った男の背中を睨んだ衿狭も、ふぅっと息を吐くと、傍らで尻を地面に着けたまま成り行きを見ていた白化病の女性にしゃがんで手を差し伸べた。
「おばさん、大丈夫? 立てる?」
女性は衿狭の言葉に表情を綻ばせた。何とか衿狭の手を借りて立ち上がろうともがくが、どうにも腰を強く打ち付けた所為かなかなか立ち上がれない。
傍で棒立ちしていた先達ははっとした。ここまで来て無関係を装い立ち去るのも不自然だ。
少し——
ほんの少しの躊躇の後、先達は衿狭に倣って女性に手を添えた。
「手伝うよ」
その声に衿狭が先達を見た。
そうして初めて笑った。
「ありがとう」
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