第五幕 雨 ②

 



「ごほっ、げほっ」

 近付いてきた康峰が気まずそうに咳払いをする。

 ……いや、彼の場合は本当に喋ろうとして気管が詰まっただけかもしれない。

 今日も島を覆う霧は濃い。

 視界を遮ろうとするように辺り一面を覆っている。湿気も高くてやけに肌が心地悪かった。

 だが仮に霧が晴れていても——

 いまの自分には何も見える気がしない。

「全く勘弁してほしいよな、青色生徒会の連中は。追い返すだけでもひと苦労だって」

 康峰がそう言いながら先達の隣に立った。

 先達と並んで窓の外を見て、溜息を吐く。

 きっと彼なりに気を遣ってくれているのだろう。

 それは分かっても、いまはそれに応えられそうになかった。

 しばらく沈黙が流れる。


「——僕は」

 やがて先達は独り言のように呟いた。

「馬鹿だったんだと思います」

「…………」

「偶然にも荻納おぎのうさんと仲良くなることが出来て、有頂天になって。もっとよく荻納さんのことを見て、話を聞いていれば少しの異変でも気付くことが出来たかもしれないのに。隣にいたのに何も見てなかった。何も聞いてなかった……」

「お前の所為じゃないだろ」

 康峰が返す。「荻納が消えたのは」

「いえ、気付いたんです、僕。改めて考えてみれば驚くほど僕が荻納さんについて知ってることなんて少ないって。何が好物で、何が嫌いか。休日何をして、毎日何時に寝て、何時に起きて、島の外のどこから来たのか——何もかも知らなさすぎる。それなのに、そのことに気付きもしなかった。そんな自分が馬鹿らしくって……」


 実際そうだった。

 どうして自分はそのことに疑問も感じなかったのだろう。ちょっと前までは、何でも彼女について知っているような錯覚を抱いていた。

 彼女を遠くから見て、本を読んだり友達とお喋りしたりする様子を見て、髪を直す仕草や視線を動かすときの顎の角度を見て、彼女のことを何でも知っている錯覚を抱いてしまっていた。

 それが人を好きになるということかもしれない。

 だがいまは後悔しかない。

 こんなことになると分かっていたら。

 一瞬手に入ったものが指先を擦り抜けていくと分かっていたなら。

——もっといろんなことを聞いて、知っておこうとしたのに……

 だけど今更そんなことを言っても遅い。

 だから自分は馬鹿だ。どうしようもなく馬鹿だったと、痛いほど感じている。


 康峰は頭を掻いて言った。

「まだあいつが帰ってこないと決まったわけじゃない。案外ふらりといまここに現れるかもしれないだろ?」

 明らかな気休めを言ったあと、康峰は先達の肩に手を置いた。

「なぁ先達、昨日も再三訊いたことだが、荻納の行き先に何か心当たりはないか? 一応鵜躾うしつけ早颪さおろしにも訊いたが、やっぱりあいつらも心当たりはないって言ってる。俺は何か手掛かりがあるなら荻納がいなくなる直前じゃないかと思ってるんだ。あの日、お前にだけ何か変なことを言ったりしなかったか? もう一度よく思い出してみてくれ」


 そんなことはこの二日で何十回と繰り返した。

 荻納衿狭と最後に会った猫工場での夕暮れ、そのとき彼女との遣り取りを頭のなかで繰り返し再生した。その度に彼女が自分の手を握った感触がまざまざと蘇る。彼女の体温をいまも指先に感じるほどに。

 それでも——

 手掛かりは何も見つけられなかった。

 確かに何かいつもと違う——そんな違和感は覚えたはずなのに。それがいつからか、何を見て思ったかが明確に思い出せない。

 思い当たるとすれば……

——灰泥はいどろ煉真れんまと遭遇した、あのときか。

 それまでは普段とそう変わらない、飄々としてどこか不思議で何事も見透かしたような目をしていた。それが揺らいだのは煉真と出会った前後だった気がする。

 もしかしたら先達の手を握ったあのとき、彼女は既に何かを決めていたのかもしれない。それが何かは分からない。だが、そうでなければいきなり先達の手を握ったりはしない。

 いま思えば、あれは。


 別れを告げていたような——


 不意に心臓に硝子を突き立てられたような感触に、先達は思わず窓際を離れた。

 その勢いのまま、康峰に背を向けて歩き出す。

 康峰が言った。

「どこへ行く?」

「僕も、もう一度捜してきます」

「捜すって、これ以上どこを?」

「分かりません。でもここでぼうっと外を見ているよりはいい」

「じゃあ俺も——」

「いえ。今日は僕ひとりで捜してみます」

 康峰は昨日の捜索で相当体に無理をしたようだった。

 衿狭のことで頭がいっぱいの先達でも気付いたくらいだ、もともと白化病はっかびょうの康峰にこれ以上無理はさせられない。

 それに何より——

 先達自身がひとりになりたい気分だった。

 それを察したのか、康峰はそれ以上踏み込みはしなかった。

「分かった。くれぐれも無理はするなよ」

「はい」

「そうだ、無線を持っておけ。何かあったら連絡しろよ」

 康峰はそう言って胸ポケットから取り出した無線を先達に渡した。

 確かにそうだ。先達は自分の無線を持っていない。これでは何かあっても碌に連絡も取れない——そんなことにも気が回っていない。

 やっぱり、自分で分かってる以上に——動揺している。

 先達は受け取った無線を胸元のポケットに入れながら呟いた。

「ありがとうございます。……あの」

「ん?」


「すみません——先生」


 そう言って小さく頭を下げる。

 康峰は面食らったように目を瞬かせた。

 やがて困ったように呟いた。

「……何の謝罪だよ」

 それは——先達にもはっきり分からない。

 ほとんど無意識に出た言葉と行動だった。

 ただ、何となく言わずにいられなかっただけかもしれない。

「いいから、気を付けろよ。それと無茶はしないように……ってさっきもう言ったか」

「……気を付けます」

「ああ」 

 その言葉を最後に、先達は今度こそ校舎の外へ向かい歩き出した。

 背後から心配するような康峰の視線を感じる。

 それでも先達はもう振り返らなかった。

 ただ真っ直ぐに歩き続けた。

 深く濃い霧のなかへ——



 

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