第二幕 殺人鬼の正体 ④

 

「おい沙垣! こっちは駄目だ、青色が待ち伏せてる!」

 廊下を抜けて校庭に抜けようとしたところで誰かが叫んだ。

 先達は慌てて進路を変更し、階段から上へ逃げることにした。

 衿狭えりさも黙ってついてくる。

 どこへ逃げればいいのか——どこまで逃げればいいのか。足を走らせながらも頭のなかでは必死に校舎内の地図を捲っていた。

 吹き抜けの渡り廊下に出たとき、突然地響きのような怒声が空から響き渡った。

「そこまでだ! 止まれ!」

 《冥殺力めいさつりき》を起動させた青色の大柄な男が目の前に降ってきた。

 降ってきた——としか言いようがない。恐らく先回りして渡り廊下より上から様子を見ていたのだろう。

 先達は慌てて急ブレーキをかけた。その先達に向かって青色が手を伸ばし、肩を掴んだ。

 青い炎を纏った丸太のような腕だ。軽く掴んでいるだけかもしれないが、先達は万力で絞められたような痛みに悲鳴も上げられなかった。

「こんな馬鹿な真似をしてうまく行くと思——げふぅっ」

 その青色の巨体が横から飛び出してきた何かに吹っ飛ばされた。男はまるでトラックに突っ込まれたような勢いで渡り廊下の向こうまで転がる。

 肩を解放された先達は見上げる。

 青色の生徒より一回り大柄で堅牢な肉体の持ち主、鍋島村雲がそこに拳を構えて立ちはだかっていた。

 村雲は先達を一瞥すると落雷のような声で怒鳴る。

「行け、沙垣先達! 荻納おぎのう衿狭を連れて逃げろ!」

「は、はい!」

 と答えようとしたが、驚きとか痛みとかでまともに声になったかどうか。

 青色は既に起き上がろうとしている。頭を振って村雲を睨み上げた。

「ふざけやがって、鍋し——」

「ッしゃあオラッ!」

 起き上がった青色が今度は猿のごとく飛び出してきた影に顎を蹴飛ばされた。

 したたかに顎を蹴られた男は脳震盪を起こしたようにその場で崩れ落ちた。

 いかに《冥殺力》があろうと、あれではしばらく起きられないだろう。

 ポケットに手を突っ込んだまま足を振り回した馬更竜巻が村雲の隣まで跳んできて怒鳴った。

「おいおいおいおい、ヤベーぞ鍋島ァ! もうほとんど周りを囲まれてやがる! こんな不意打ち何度も通用しねぇ! どうするッてんだ、これから?」

「俺が知るか。とにかく会長が決めたことだ、俺たちはどこまでも抵抗する」

 村雲はそう言って先達たちに目を向けた。「とにかくお前たちはどこかへ逃げろ!」

「わ、分かりました!」

 先達は再び衿狭の手首を握って走り出す。


 村雲や竜巻の援護は有難かった。だが彼らの言葉通りならかなり状況は危うい。外に逃げ道はないし、校舎内に身を隠すと言っても選択肢はあまりない。最悪な状況なのに考えている時間もない。

 先達はそろそろ縺れそうな足で走りながら周囲へ視線を走らせた。

 行く手に男子トイレが見えた。

 当然躊躇はあったが、悠長に迷っている時間なんてないし、何より他に選択肢は見つからない。

——仕方ない。

 先達は衿狭の手首を掴んだまま、男子トイレに飛び込んだ。衿狭も戸惑ったかもしれないが、抵抗せずついて来てくれた。

 トイレに入った先達はすぐさまなかを見回した。

 個室の扉はひとつ閉まっているが幸い他に人影はなく、正面には小さな窓がある。頑張れば先達でも外へ出られそうだ。だがここは二階——確かこの位置から出れば校庭の植え込み辺りに出る。慎重に出れば足を挫かず出られるだろうか?

「もうやめようよ、沙垣君」

 不意に衿狭が場違いなほど静かに言った。

 先達は驚いて振り返る。

 衿狭は少し額に汗を浮かべ、息を乱しながらも視線はいつものようにどこまでも冷静で落ち着いて見えた。乱れた前髪を指先で撫でて先達の目を見る。

「私のために、これ以上逃げるのはやめて。沙垣君も……ただじゃ済まない」

「そんなの、どうだっていいよ。だって荻納さん、が……」

 先達は荒い呼吸でそれ以上続けて喋れなくなった。

 気付けばバケツの水を被ったように汗を流している。

 ただ疲労のためだけではない。

 こんな未経験の冒険に冷や汗や何だか分からない汗が止まらないのだろう。

 だがいまはそんな場合ではない。トイレに逃げ込むところは見られなかったとしても、連中がここを嗅ぎ付けるのは時間の問題だ。すぐに窓から出るか廊下に引き返すか決めなくてはいけない。

 だが肝心の衿狭が首を左右に振る。

「その気持ちは嬉しいけど、もうやめて。私が嫌なの。人を巻き込むのは」

「どうしてそんなこと言うんだよ。僕は……」

 うまく言葉を繋げられない。

 別に衿狭のためじゃない、自分がしたかったからと言えばいいのか。それとも青色の横暴を見て見ぬ振りが出来なかったとでも言うのか。

 だがどんな言葉でも衿狭のこころは動かせそうになかった。

「分かってる。ありがとう、沙垣君。私、嬉しかったよ」

 衿狭は諭すような慰めるような声で囁くように言った。

 普段ならこころを擽るような心地よいその声の響き。

 だがいまはもどかしく、苛立たしい響きに聞こえた。

 徐々にトイレの外が騒がしくなっている。

——もう連中はここを嗅ぎ付けたのか。

「だけど私はこれ以上他人を巻き込んで騒ぎを大きくしたくないの。私のためにもこれ以上こんなことはやめて。分かってくれるよね、沙垣君?」

 まるで立場があべこべだ。なぜか自分が説得されている。本来なら自分が衿狭の手を握って、力強い声で、こころを動かすべきなのに。これじゃまるで子供があやされているようだ。

 先達はごくりと唾を飲み込んだ。

 全身の汗が急激に冷えつつある。

 震える唇をようやく動かして言った。

「どうして、そんなふうに言うんだよ。僕はただ……」

「沙垣君は人のいいところを見過ぎ。私はそこまでいい人じゃないよ」

「そんなこと……」

「それに、もしかしたら」

 衿狭はどこか投げやりな口調で言った。

「青色の言ってることも間違ってないかもしれないし」

「え……?」

 先達は耳を疑った。

 衿狭は——彼女は何を言い出すんだろう。

 いまのは何かの聞き違いか?

 それとも先達を諦めさせるための嘘か?

「ねぇ、沙垣君」

 不意に衿狭が先達の目を覗き込む。

 呼吸が止まるような美しいその瞳で。

 彼女の唇が動いた。


「本当に気付いてない?」


「……何の話——」

 突如、不愛想な水音が先達の言葉を遮った。

 はっとして音のしたほう——閉じられた個室の扉を見る。

 衿狭もそっちを見た。

 不気味な沈黙のなかで扉が閉じている。

 そうだ——あまりにも慌てていて見過ごしていたが、個室の扉がひとつ閉まっていた。

 それはつまり、そこに誰かいるということだ。当然。

 そんなことにも頭が回っていないなんて。自分の迂闊さに舌を噛みたくなる。

 ゴトン、と音を立てて個室の鍵が外された。

 衿狭が一歩足を引く。

 先達は扉のほうを注視しながら衿狭を庇うように身を乗り出した。

 個室の扉がゆっくりと開く。

 なかからのっそり出てきたのは——

 安っぽい白衣に肩まで伸びた白い髪。不健康そのものの顔つきに、痩せ細った体つき。心なしか普段以上に背を屈めていて顔色も悪い。

 新任教師の軛殯くびきもがり康峰やすみねがそこにいた。

「……ごほっ」


「……何やってんですか、先生?」

 先達は思わず気の抜けた声を出した。

「何やってんですかはこっちの台詞だ、先達。つうか便所の個室でやることなんざひとつだろうが、訊きたいのか?」

「いや、結構です」

「俺は毎朝のルーティーンで用を足してたところ誰かが息切らして飛び込んでくるのが聞こえたから、何かと思って息を潜めてたらお前らの声だったもんだからてっきり一線を越えてトイレで破廉恥なことでもするのかと肝を冷やしてたんだよ。ようやくそうじゃないらしいと分かって汚物を流したところだ」

 結構と言ったのに詳しく説明されてしまった。

「最悪」

 衿狭がぽつりと呟いた。

「何だとぉ? 男子便所に飛び込んどいて勝手なこと言ってるのはどっちだ、ぇえ?」

「先生、近付かないでください」

「お前まで鼻を抓むな。あのね、いきなり俺が授業で今日の排泄トークをし出したんならその態度も分かるよ? けどここは天下の男子便所だ。そこに飛び込んできといてそういう態度は如何なものかと……というか、これ何の騒ぎだ?」


「こっちです、会長!」

 トイレの外から男の声が響いた。

 先達は状況を思い出し青ざめる。既に青色生徒会は集まり舞鳳鷺の到着を待っているらしい。愈々残された時間は少ない。

 先達は唇を嚙み締めた。やはりここは諦めるしかないのか。どう考えてもそれが賢明——いや、無難なだけか。でも他に何ができる?

 ……いや。

 先達は康峰を見た。

 彼が現れたことで状況は変わった。選択肢がひとつ増えたじゃないか。

 こうなったら——その可能性に賭けるしかない。

 先達は改めて康峰に向き直った。

「先生、お願いがあります」

「お願い?」

 康峰が訝しげにこっちを見る。

 横から衿狭の視線も感じる。

 先達は一度息を吸い込む。

 意を決して言った。


「いますぐ荻納さんと一緒に後ろの窓から逃げてください」



 

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