第二幕 殺人鬼の正体 ①
「おはよう、沙垣君」
不意に背後から声が掛けられた。
声の主の
朝の光が傍にある川面に反射し、彼女の横顔がきらきら輝いて見えた。
思わず見惚れてしまう。
なんて夢を見て起きると——
——っていや、違う! 夢じゃない⁉
これは現実だ。
自分はいつものように学生寮を出て、校舎に向かっていて——と言っても学生寮から校舎までは近い。意図的に足を緩めなければ頭が起きる前に着いてしまう。
その途中で背後から声を掛けられたんだ。衿狭に。
黙っていると彼女は少し心配そうに首を傾げてきた。
「もしもし。聞こえてる?」
不思議そうに先達の顔を覗き込む。
その動きに黒髪が流れる。
「——あ、うん、おはよう荻納さん!」
危うく意識が飛ぶ前に、やっとのことで先達は喋った。
「珍しいね、こんなところで会うなんて?」
「うん。今日は
出てみようというのは授業に、ということだろう。
だが衿狭が授業に出席するなんて珍しい。むしろ初めてじゃないか。
「なんで急に?」
言いながら先達は声が上擦ってしまうのを自覚した。
もう何度も会話しているはずなのに、こうして不意打ちを受けるとどうしても冷静に喋れなくなる。そんな自分を殴りたかった。
「うーん。まぁ、ちょっと。……たまにはね」
衿狭は川面に目を遣りながら他人事のように呟いた。
煌めく水面を二羽のカモがゆっくりと浮かんでいる。
不意に彼女は頬を緩めた。先達の顔をまた覗き込む。
「そういえば、沙垣君はあの新しい先生となんか仲良いみたいだし。私だけ
悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「へえぇ? いや、全然そんなことないよ。仲良くなんかないよ!」
「そぉ?」
「じゃあさ、もし——私があの先生を殴ってって言ったら、殴れる?」
「え?」
「ふふ」
衿狭は意味ありげに笑うと前に立って歩き出した。
——冗談か……
先達は二、三秒掛かってようやく気付いた。
「行こ」
衿狭が振り返って言う。
先達は慌てて彼女の後を追った。
……やっぱりまだ寝てるのか?
先達は歩きながら思った。
衿狭の歩幅は少し狭い。それに合わそうとするうちに気付くと彼女の斜め後ろを歩いていた。彼女が歩くたびに髪がふわりと揺れ、そこから漂う香りに先達はくらくらと脳が揺らされる思いがした。
自分はいまあの荻納衿狭と並んで登校している。
これってどういうことなんだ?
つまり何が起こっているんだ?
とにかくいまは何か話さないと——
そう思ったが悲しいことに先達の頭に浮かぶのは至って平凡な天気への称賛か、昨日見たテレビ番組への差し障りない悪口しかなかった。
火を吹く勢いで脳内の会話デッキを手繰っているうちに、先に彼女に口火を切られてしまった。
「沙垣君も聞いてる? あの噂」
えっ、と声が出た。
だが何の噂とは訊き返さなかった。
すぐにそれが「荻納衿狭が殺人バット」とかいう例の噂のことと察したからだ。
「何とも思ってないよ、あんなの」
先達が何か言うより早く、衿狭が言った。
投げ捨てるような、冷ややかな口調だと思った。
「私が気にしてるのは——あの子のこと」
衿狭が足を止めて小川のきらきらと光る水面を見る。
先達もつられて足を止めた。
あの子——
彼女が口にした相手が誰のことかは先達でも分かる。
——
衿狭の親友だった女の子。
そして——
いまから約三か月前にこの世を去った少女。
夜霧七星はある日の早朝校舎屋上から飛び降りて自殺した。
どうして彼女がいきなりそんなことをしたのか未だに真相は明らかでない。
確かに彼女はいじめを受けていたが、その主犯格が一か月前に姿を消している。その後いじめに加わったグループも彼女に手を出していなかったらしい。
尤も——
噂はある。
あくまで噂だ。主犯格の女子生徒が消えたあと、それに代わるように七星に何かと詰め寄っていた男子生徒——灰泥煉真の噂。
だがどちらにせよ真相はまだ霧のなかだ。
自殺の動機の調査は実質的に終わっている。
そしてそのことに一番納得が行っていないのは——
「あの子がまだ解決を待ってるのに、私だけへらへらと授業を受けてるだなんて……」
衿狭の声は少し震えて聞こえた。
まるで七星がまだ生きているかのような言い方だと先達は思った。もしかしたら彼女はわざとそういう言い方をしたのかもしれない。
先達にはどう返していいか分からなかった。
確かに夜霧七星のことは知っている。何度か言葉を交わしたこともある。自分が言うのも何だけど、押しに弱いと言うか、気が小さいと言うか、損な役回りをしがちな少女だった。
——そういう意味ではシンパシーがあるけど……
だからと言って親しかったわけではない。
そんな彼女の死に、どう反応していいか分からない。
ことさら衿狭に共感するふりや、悲しむ顔を見せるのも違う気がした。
かと言って先達だって平気ではない。彼女の事件はショックだった。
黙っていると、衿狭が振り返ってこっちを見た。
「ごめんねこんな話、沙垣君にしても仕方ないのに。沙垣君を困らせるつもりじゃないの」
「僕は——その、何もできなかったから」
先達は言葉を探り探り言った。
二羽のカモはもう遠くにいる。
「せめて、荻納さんのそういう気持ちを聞けてよかった。何でも話してくれて嬉しいよ。これからも。もちろん、話したければだけど」
うまく言えたか分からない。
それでも衿狭は数秒間先達を見つめたあと、笑みを浮かべた。
「うん。ありがと」
砂利を踏む足音とともに彼女は踏み出す。
「——さ、もうこの話はやめよう。そろそろ行かなきゃ『授業』に遅れちゃう」
衿狭はわざとらしく『授業』を強調して言った。
本当はまだ彼女に掛けるべき言葉があるような気がしたが、どうしてもそれは言葉にならなかった。
仕方なく先達も彼女の後に続いて歩き出す。
——もしかしたら……
衿狭がこうして登校したのは、一種の「諦め」の表れなのかもしれない。
だが——それ以上考えるのはやめた。
いまはただ、衿狭と肩を並べて歩ける幸せを噛み締めよう。
——とは言っても……
もう校舎は見えている。周囲にはちらほらと他の生徒の登校する姿も見える。あまりにも短い道のりだ。どうして幸せな時間は瞬く間に過ぎてしまうのだろう。
今のうち、二人きりでいられるうちに何か話しておくべきことはないか。
言っておきたいことはないか。
先達は商店街の福引のガラガラを回すがごとく全力で脳を回転させたが、空しくも参加賞の白玉しか出てこなかった。
——いっそのこと、このまま彼女の手を引いてどこかへ行けたら……
想像してみる。
彼女の細い手首を掴み、驚く彼女をそのままに道を折れて校舎とは別方向に走り出す。彼女はどんな顔をするだろう。やめてと言って手を振り払うだろうか? それとも黙って付いてきてくれるだろうか?
そんな妄想に浸るうちに、ふたりは校門を潜っていた。
無言のまま衿狭とともに靴箱の並ぶ校舎玄関に近付く。
——このまま逆行するエスカレーターみたいに靴箱が遠ざからないかな……
最早ファンシーな空想を振り切るように、先達は頭を振った。黙って玄関に入る。
しぶしぶいつものように自分の靴箱に向かったそのとき。
「お待ちしておりましたわ。荻納衿狭さんですわね?」
突然響いた声に、先達も、衿狭も、またその周りにちらほらといた生徒たちも動きを止めた。
先達は振り返った。
青色生徒会会長
様子から見て待ち構えていたのだろう。
舞鳳鷺は周囲の生徒の注目を気にすることなく——いやむしろ注目を愉しんでいるかのように、一歩踏み込んだ。
朝の校舎玄関に高らかな声を響かせて言う。
「貴女を連続猟奇殺人鬼の疑いで調査します。さぁ、ご同行願えますかしら?」
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