第一幕 事件がひと段落着いたあとの穏やかな日常パート ④
「あー、そうだな……周囲にいる、口のうまい奴を真似してみるとか?」
「周囲?」
「うん」
「竜巻のような者か?」
「いやあいつは駄目だろ」
「そうかな。竜巻はたいした奴だ。私も常々ああいうふうにぽんぽん言葉が出ればみんなの信用も変わってくるのではないかと思うのだが、どうしてもあんなふうにうまく言葉を紡ぐことができない。羨ましいくらいだ」
「……お前がいきなりあの伝法でお下品な喋り方をし出したらみんなが泡吹いて引っくり返っちまう。頼むから別の奴を参考にしてくれ」
「ふむ……では——村雲は?」
「絶対駄目だろ」
「そうだな……」
悪気はないのだろうが紗綺もすぐさま言った。
女性相手では碌に舌が回らず顔色を白黒させるあの男がお喋りの先生に向くわけがない。彼女もすぐそれを察したらしい。
少し悩んだ様子のあと、目を輝かせて紗綺が叫んだ。
「そうだ! いた、いい人が」
「おっ、誰だ?」
「先生だ」
「えっ」
「どうして気付かなかったんだろう。先生を模範にするのが一番いいに違いない。よし、決めた」
思いがけない流れ弾に康峰は動揺する。
いや、この場合ブーメランと言うべきか。自ら撒いた火の粉か?
——と言うか彼女の俺への評価は『口のうまい奴』なんだろうか……
それもちょっと複雑な気がする。
「あの、ちょっとそれは……」
「何か不都合が?」
「遠慮してほしいですね……」
何故か敬語になる。
「どうして?」
「どうしても」
紗綺がちょっと不思議そうに二、三度瞬きした。
その後——夕刻。
紗綺とあれこれ話したあと、職員室に戻った康峰は用務をこなした。ようやく明日の教材の整理も終えて帰路に就こうとしたところだ。
生徒たちは各自学生寮に帰ったり、まだ訓練所で談笑したりしている。なかには町へ遊びに行く者もいるようだ。校舎内の教師たちもぽつぽつと帰路に就き始めた。こうしたところを見ると普通の学校とそう変わらないよう見える。
夕日の差し込む廊下を歩いていると、ひとり突っ立っている少年の姿を見かけた。
手にしているのは多分例の結露落とし用の棒だろう。
彼は康峰が接近しても気付かない様子でぼんやり窓の外を見ている。
「何してんだ、先達?」
康峰に声を掛けられて、弾かれたように先達がこっちを見た。
「ああ……何だ、先生か」
「何だとは何だ。お前を
康峰は冗談めかして言ったが、先達は沈んだ顔で生返事をする。
そろそろ「しつこいですよ」のひとつでも返してくることを期待したのに。冗談の分からない奴。一生モテないに違いない。
それにしても……
——妙に掃除道具の似合う奴だな。
と言うのは流石に気が引けたので、別のことを言った。
「何か考えてたのか」
「ええ。まあ」
先達は呟くように言った。
「……
「あ、それはパスだ」
「へ?」
こういう奴の魂胆は分かっている。どうせ「どうすればもっと彼女と仲良くなれますか?」とか愚にも付かない相談をするに違いない。
あわよくば「彼女くらい可愛ければ他に男が言い寄って来ないか心配です」とかノロケ話みたいなことをほざくに違いない。そんな与太話に耳を貸すくらいなら道端で交尾してる野良猫のアテレコでもしてたほうが百倍マシだ。
「女の話は専門外だ。よそでやってくれ」
「そういうんじゃないんです。悩みって言うか、心配事と言うか、まぁ多分僕の考え過ぎじゃないかと思うんですけど……」
「何をごにょごにょ言ってんだ?」
「先生は最近流行ってる噂、何か耳に入ってませんか?」
「噂?」
「荻納さんが……殺人バットなんじゃないかって」
「——なに?」
康峰は思わず声を引っ繰り返した。
「あの荻納が? 殺人バット?」
「ちょっと、あんまり大きな声で言わないでください」
「何を根拠にそんなこと言う奴がいるんだ? お前はそれを信じてるのか?」
「だから、僕は全く信じてませんよ。身長的にも一致しないし、あの荻納さんがそんな野蛮で物騒なことをするはずがない、第一動機がない。でも……噂になってるんです。何か目撃した女子生徒がいるそうで」
「何を見たんだ?」
「はっきりしませんが……荻納さんが殺人バットの着てた服を持ってたとか、買ってるのを見たとか。それどころか森のなかでその変装を解いてるのを見たっていう噂もあるそうです」
康峰は無言で腕を組んだ。
信じてないと言いながら先達の目は不安げに揺らいでいる。
いや、信じてないとしても、意中の相手にそんな噂が立てば穏やかではないだろう。
噂とは往々にして
だから一旦その噂を無視するとしても——
康峰にはあの荻納衿狭が殺人バットとは到底思えなかった。
彼女について詳しく知っているわけではない。何度か顔を見ても、大体仲のいい
そんな彼女と、あの殺人鬼を頭のなかで重ね合わせようとしても、どうしてもズレる。
体形の違いくらいはごまかせる。
動機も何かあるのかもしれない。
だが、それでも不自然さは残る。
——殺人バットか……
忘れていたわけじゃない。だがここしばらくの環境の変化に、気にする余裕もなかった。猫工場で襲われて以来康峰も奴とは遭遇していない。また奴自身最近はおとなしくしているのか、出没情報も耳にしなかった。
だが——
奴は霧でも幻でもない。
いまもこの島のどこかにいるのだ。
その事実を無視するわけには行かなかった。
「もし荻納が殺人バットだとしたら、ただ事じゃないな」
「そんな当たり前のこと……」
「そうじゃない、先達。お前には話してなかったか? 俺が猫工場で見た奴のこと」
「何の話です?」
「《
先達がごくりと唾を飲み込むのが分かった。
その瞳が今までにないくらい揺れた。
校庭からは誰かがふざけて笑う声が聞こえる。夕日は西の地平線に隠れようとしていた。暗くなり出した教室で、先達の顔も半ば影に落ちていた。
やがて先達がぽつりと呟いた。
「僕も先生に話してませんでした」
「何を?」
「覚えてますか、初めて僕に会ったときのこと? 先生はマガネに追われてた」
「……忘れられるもんなら忘れたいよ」
康峰は顔を顰めて言った。
何せあのとき自分は一回死んだのだ。
「先生が死んだあと奴は僕に狙いを定めた。そのあと僕も死に掛けましたが、誰かが現れてマガネを倒してくれたお蔭で助かりました」
「もう少し早くそのヒーローに駆け付けてほしかったよ。そいつは誰なんだ?」
「分かりません」
先達は首を左右に振った。
「霧が深かったですから。でも——背格好や、遠目にも真っ黒な姿を考えると、あれは殺人バットだった気がするんです」
「殺人バットが——お前を助けた?」
先達の影が頷いた。
「何のために?」
「分かりません。たまたまマガネを殺したかっただけかも。確実なのは、奴が《
「待てよ」
康峰は思わず声を強めた。
「ええと、確か《冥殺力》と《冥浄力》は同じ人間には使えないんじゃなかったか? そうでなければわざわざ使徒がふたつに分けた意味がない」
「ええ。だからこれは異常なんです」
先達がさっき唾を飲み込んだ意味が康峰にも分かった。
今度は康峰が動揺に瞳を揺らす番だった。
ふたりは夕闇の教室でしばらく黙り込んだ。
校庭からはまだ誰かの元気な声が響いている。
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