第一幕 事件がひと段落着いたあとの穏やかな日常パート ②
その日の午後。
昼食を終えた
渡り廊下からは校庭の木々が見える。珍しい好天気に新緑も彩りを増したようだ。木々の間を時折駆け抜ける風が頬を撫でた。つい足を止めて、緑のざわめきに目もこころも奪われそうになる。
「先生」
不意に背後から掛かった声に康峰は振り返った。
渡り廊下の向こうに
「ああ——紅緋絽纐纈か。どうした?」
「いや、特に何ということはない。訓練に向かう前に先生の背中が見えたから声を掛けてみただけだ。忙しかったか?」
「いや、午後からは授業がないからな。明日の準備とか、やることはあるが」
「そうか」
紗綺が頷いた。
実際のところ、授業以外にもやることはたくさんある。康峰はこの数週間、曲がりなりにも教師を務めるということの大変さを痛感していた。
生徒を授業に出すだけに腐心していた頃には気付かなかった。だが実際生徒が授業に出始めると、一安心などしている暇はない。教材は事前に確認しなければならないし、必要なら資料を編集したり作成したりしなければならないし、生徒ひとりひとり評価したり採点したりもする。生徒がふつうの学園に比べて圧倒的に少ない鴉羽学園でも新任の康峰には目の回る仕事量と言えた。
わずかなりとも以前教材の編集の仕事を齧っていた経験がなければ、この程度では済まなかっただろう。
——まぁ、その仕事も例によってクビになったけどな……
悲しい回想で思考を締め括り、康峰は目の前の紗綺に視線を戻した。
彼女の表情は一見無表情にも見える。だが表情の変化に乏しいだけで彼女なりに笑顔を浮かべているのかもしれない。康峰にはこの数週間のうちに彼女の微妙な表情の変化を読むことができるようになっていた。
緋色の長い髪がそよ風に踊った。
それにしてもやはり綺麗な少女だ。
生徒たちが男も女も彼女にこころを奪われるのも頷ける。
初めて生徒名簿で先達に彼女の写真を見せられたときも、慌てて無関心を装ったほどだ。ずっと年下の女の子相手に鼻の下を伸ばしている場合ではない。それもこれから生徒になる少年の前で。
——思えばあれが教師らしさを心掛けた最初の瞬間だったかもな……
彼女は単に顔立ちが整っているというだけではない。
その立ち姿、挙措、言葉遣い——その端々にも思わず見る者を引き付ける、気品のようなものが漂っていた。それでいてどこか抜けているというか、子供っぽいというか。何だか放っておけないところもある。
後になってから知って驚いたが、彼女は鍋島村雲、
そんな年下の少女を会長に立てる、村雲たちもたいしたものかもしれないが。
「先生には謝らなければと思っていたんだ」
紗綺は舞った前髪を少し整えながら言った。
落とした声は少しばつが悪そうに聞こえる。
「謝る? 何を?」
「初めて先生に会った日のことだ。私は酷いことを言ってしまった。済まない」
そう言うと紗綺は大げさに頭を下げた。
そう言われても康峰は戸惑うしかない。
そんな酷いことを彼女に言われただろうか。何とか記憶の糸を手繰り寄せ、ようやく思い当たった。
「それは『自分たちに教師は要らない』って言ったことか? そんなこと気にしてたことのほうが驚きだな。別に謝るほどのことじゃないだろ」
「そう言ってもらえると……いや、先生は優しいからな。生徒を傷つけないために嘘を吐いているかもしれない。ここはやはり謝っておこう。——済まなかった」
漏れなく途中経過の思考がダダ漏れになってしまっている。
「ま、まぁ気にするな」
「先生の授業に出てみて、私は間違っていたと思った。先生の授業に出るみんなはとても楽しそうだ。いままであまり見なかった顔をしてる。私も楽しい。こんな日々が続くならとても嬉しいと思う。全部先生のお蔭だ」
「ごほっ」
「大丈夫か?」
「あ、ああ」
康峰は校庭の木々に視線を逸らしながら言った。
そんなふうに褒められるのは慣れてない。そしてずいぶん過度な評価だ。
やはり——彼女は自分を過大評価している。
——弱ったな……
そう言えば
正直康峰がこれだけ教師として頑張り、生徒を授業に出させるとは思わなかった。先生はこの学園に必要不可欠な人間だ、これからもどうか生徒たちを導いてやってほしい——
そんなことを言ってあのでかい図体を折り曲げて康峰に頭を下げたのだ。
その際にも康峰は血を吐く勢いで咳き込んだ。
このままではその二の舞になる。
何とか話題を変えよう。
「そうだ、紅緋絽纐纈、何か悩みごととかないか?」
「悩みごと?」
「ああ。俺は教師だからな。生徒の悩みだって聞くだろ」
「悩み、か……」
紗綺は目を伏せて考え込んだ。
案の定、と言うべきか紗綺の一文字に結んだ唇はなかなか開かれることはない。
まぁこの質問はえてして相手を黙らせてしまうものだ。むしろこう訊かれてすぐ陳情を
「そういえば、戦闘訓練の折にメニューに付いてこられないと嘆いている者がいたな。みな頑張り屋だから私や村雲や竜巻に合わせてくるが、それでは付いてくるのが難しい者もいる。訓練メニューを見直さなければ……」
そこまで
「ああいや、これは先生の専門外だったな。鬼頭教官にでも訊かなければ」
「まぁ、そうだな……」
「そうだ、他にもあったぞ。食堂のメニューの品揃えが乏しく、もっと豊富なメニューが欲しいと漏らしている者もいた。私はそれほど気にしたことはなかったが、なるほど選択肢が多いほうが食事の楽しみも増えるし、栄養のバランス上の観点でも偏りは避けたほうがいい。これなら先生の知恵が借りられるだろうか?」
「そりゃ別に掛け合ってもいいが……」
康峰は頭を掻いた。
「もっとこう、お前自身の悩みはないのか? 全部他人の悩みとか要望だろう?」
「私の?」
紗綺は小さく呟いた。
目を瞬かせる。
そんなに意外なことを言ったつもりはないが、少女はまた考え込むようにして視線を落としてしまった。
よほど個人的な悩みはないらしい。
と言うより、彼女の性格上あまり些事に拘らないのかもしれない。或いは環境や状況を受け入れる適用力の高さが不満や悩みを覚えさせないのか。
率先して他人のことを考える性質は美徳だが——
彼女を見ていると、それ以上にどこか危うさを感じずにいられない。
「うぅん、それはあまり考えたことがなかった……せっかく先生が申し出てくれたのに、申し訳ない」
「別の俺のために言ってるんじゃないぞ」
「よし。今度何か思いついたら真っ先に先生に相談する。誓おう」
「世界一どうでもいい誓いを立てるな……」
紗綺が口を開きかけて、また閉じた。
どうやら何かを口にすべきか迷っているらしい。
少し待ってやると、やがて決心したように彼女は話し出した。
「先生はまだ知らないかもしれないが……私はこの学園ではちょっと特殊だ」
「うん」
——それは誰が見ても分かる。
そう思ったが黙って続きを待った。
だが、続く紗綺の告白は予想しないものだった。
「私は自ら志願してこの学園にやってきた」
「——そうなのか?」
「ああ」
「何でまた?」
「それが私の《使命》だと思ったから——と言ったらおかしいだろうか?」
使命——
そういえば猫工場で初めて会った日も、そんな言葉を使っていた気がする。
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