破. 殺人バット
第一幕 事件がひと段落着いたあとの穏やかな日常パート ①
「……七度に渡る世界規模の戦争が人類にもたらした損失は計り知れない。一説では、この戦争がなければ地球の総人口は今頃八十億を超していたとも言われ、科学技術の進歩も半世紀分近く遅れたと言われている……」
窓の外は
霧の濃いこの島でこれだけ見通しのいい日は稀有だろう。
そんな穏やかな昼の沈黙のなか、教室には
教室には十数人の生徒が席に着いている。
ほとんどが退屈そうにしていたり眠たげにしたりしているが、それでも三週間近く前この島に来たときに比べれば格段の進歩と言えよう。奇跡的とさえ言っても誇張ではない。
康峰はそんな生徒の机の間を歩きつつ教科書を読んでいた。
怪我した脚も治り、ようやく松葉杖からも解放されている。
「……二十世紀末になり後に使徒と呼ばれる者たちが現れ始めた。当初は恐れ疎まれる例もあったようだが、彼らが企業を動かし食糧不足や疫病を解決したり、新しい生産技術の開発に貢献したりしたことで彼らを見る目も次第に変わって行った……」
喋りながらちらりと生徒たちに視線を向ける。
席に着いている生徒には
出来れば毎回授業に来させたいが、焦っても仕方ない。
ここにいる生徒たちは皆が同じ年齢ではない。
康峰は授業を開くようになってすぐ、年齢関係なく生徒に同じ授業に集めたほうがいいと考えた。
そもそも授業のないこの島でひとつふたつの年齢差は学力にあまり関係ないし、絶対的に生徒数が少ない。ひとつの教室に集めても教師の負担は少ないし、むしろ効率的だ。何より生徒どうし顔が見えたほうが活気もある。
そのことを康峰から学園長に提案し、受理された。
康峰は教科書を枕に突っ伏して寝ている竜巻の脇を通りながらその頭を教科書でどついた。「痛ッてぇ!」という声を聞き流しつつ、教科書に目を戻す。
「……だがある意味で彼らの存在は人類にとって劇薬と言えた。急激な使徒の台頭は一部の人々に恐怖を与え、それが使徒排斥運動の引き金となった。一方で使徒を信奉し、その力を利用しようとする動きもあり、それが使徒戦争の導火線となった。使徒戦争の終結はいまから約十五年前……」
「オイ見ろよ、このピカソって奴の絵! 女と話すときの村雲みてぇじゃねェか?」
竜巻が教科書を適当に捲って笑っている。
こんなときでも器用に足だけ使い、両手はポケットに入れている。
竜巻の後ろの席の村雲が目を白黒させた。
「ばっ、馬鹿言うな! どこがだ⁉」
「いやマジ似てるって、こないだも訓練中——」
「おい、授業中だぞ馬更、鍋島!」
康峰が竜巻の声を遮った。
なんで俺まで——という顔をしている村雲はさておき、竜巻に詰め寄る。
「全くお前はなぁ、授業に出るたびガーガー寝やがるわ、たまに寝てないと思ったら消しゴム千切って投げたりトランプタワー作ったりするわ、碌なことをしねぇな。しかも足で! どんな器用な足の指使いしてんだ? どうやってそんな器用なテクニック身に着けたのかその経緯を教えてくれよ」
「へぇ、よく見てんじゃねーか、キモガリ。知りてぇか?」
「皮肉も伝わらんようだな」
「けど俺の足使いの本領発揮はそんなもんじゃねぇぞ? 見ろ、この教科書の落書き! こいつは俺の一番の自信作だ!」
そう言って竜巻は足で掴んだ教科書を持ち上げる。
そこに載った顔写真は酷く稚拙な落書きにより見るも無残の体をなしている。進化論の祖と言うべき偉人の頭には鬼の角が生やされていた。
それを見た生徒の何人かが失笑を漏らす。村雲も鼻で笑っていた。
康峰は呆れた声を出す。
「お前なぁ……それは偉大なるチャールズ・ダーウィン先生だぞ。生き残るのはただ強い奴じゃない、変化に適応した者だという名言を遺している。お前らもただがむしゃらに強くなるだけじゃなく、これからの時代に合わせて適応する力を身に着けなきゃならないってことだ。あとキモガリって仇名を定着させるのはやめろ」
「ダーウィンだかサーディンだか知らねぇけどよぉ」
「サーディンはイワシだ」
「こぉ~~んな親父の金玉にもいねぇ頃の昔話聞かされてどーすんだよ。こんなの記憶してりゃ先々イワシ漁に行かずに済むってかぁ?」
「馬鹿、そうやって学問を軽く見るから駄目だと言ってるんだ。ちゃんと歴史から失敗を学び、明日の未来に生かす——そうやって人類は進歩してきたんだぞ」
「学んでねぇだろ。だから何度もドンパチやってんだろ?」
「いや、それは……」
痛いところを衝かれて康峰は返す言葉を見失った。
本音を言うと康峰だって歴史なんてどうでもいい。
だが教師という立場上そう言うわけにもいかない。
「竜巻、先生を困らせるのはよせ」
横から静かに口を挟んだのは紅緋絽纐纈紗綺だった。
彼女は教科書を机のうえに広げたまま腕を組んで目を閉じている。
本来なら授業を受ける態度として如何なものかと思うが、不思議と彼女のそうした姿勢は様になるから指摘しづらい。
「先生の授業はとても興味深い」
「ホントかァ、会長? じゃ会長は歴史が何の役に立つか分かんのか?」
「分からない」
にべもなく紗綺は言った。
こういうとき彼女の返答は気持ちいいほど迷いがない。
「でも先生が大事だと言ってるんだ。きっと私たちがまだ分からないだけだろう。だからまず、先生の話をよく聞くんだ。——さぁ先生、授業の邪魔して済まなかった。思う存分教鞭を揮ってほしい」
「あ、ああ……」
康峰はつい上ずった声を返した。
紗綺は再び瞑想するかのように静かに目を瞑った。
緋色の長い髪は今日も陽光を受けて、輝いてさえ見える。
生徒たちが授業に出るようになったきっかけは間違いなく紗綺だ。
人望の篤い彼女が授業に出ることで、それを追うように赤色生徒会を始め他の生徒たちも授業に集まった。
紗綺が授業に出るようになった——もとい、康峰を認めたのは約二週間前、康峰が学園長の銃口から彼女らを庇った一件がきっかけとしか思えない。
棚から牡丹餅というか、怪我の功名と言うか。
人気の高い彼女を味方に付け、他の生徒を芋づる式に引っ張り出す——ある意味でこれは当初先達に話した通り、目論んでいたことではあるが……
思いがけない事態に、内心戸惑いがある。
果たして素直に喜んでいいものか。
紗綺の自分を見る目はいささか買い被りと言うか、誤解があるようにも思える。そもそもあの日銃口の前に飛び出したのだって行き掛かりのようなものだ。
——ある日突然メッキが剥がれたらどうしよう……
そんな不安と恐怖に康峰は日々震えていた。
空咳をして教科書を捲る。
「えーと? 使徒戦争はしばらく続いたが、まぁいろいろあっていまから約十五年前に終わり。白化病とか戦争が長期化したアレとか、いろいろあったからな当時は。そりゃ戦争もやめたくなるよな、うん」
「先生、なんかすごく雑になってますよ」
「煩いよ先達。お前らに分かるように噛み砕いて説明してやってるんだぞ。黙って授業を聞きなっさい」
「はぁ」
先達はハトみたいな顔をして気の抜けた返事をする。
この少年はあの事件の際に
そういえば何度か
「なるほど。流石だ、先生」
紗綺が感心したように言った。
また康峰の適当な言葉を信じたらしい。
——参ったな……
そのとき、授業終了を告げるチャイムが高々と教室内に響き渡った。
「お、今日はここまでか。お前ら訓練や巡回もあるだろうが次は……」
「いよっしゃあぁぁぁぁ! メシだあぁぁぁ!」
「うおおおぉぉぉぉ! ハラ減ったあぁぁぁ!」
いまかいまかと待ち構えていた生徒たちが馬更竜巻を筆頭に一斉に立ち上がり、サバンナの獣のごとく教室の外へ駆け出した。食堂まで廊下を走る音が建物を揺らす。
康峰が何か言う暇もない。
呆れたものだ。
だがその元気に教室を飛び出していく様子は、化物との命がけの戦いを強いられている戦士とは思えない——ごく普通の、年頃の学生たちのようでもあった。
「……まあ、また明日。怪我しないようにしろよ」
康峰はその言葉とともに教科書を閉じた。
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