第八幕 三者三考 ①
ゆっくりと——
白い天井がまず視界に映る。
困惑した。
ここはどこだろう。
そもそも自分は何で寝てたんだろう?
何だか長い夢を見ていたような、見ていなかったような。
まだ頭がぼんやりする。
だが見回して次に視界に飛び込んできたものに先達の眠気は吹っ飛んだ。舌の上まで出かかった悲鳴を飲み込めたのは奇跡に近い。
——
荻納衿狭が自分の寝ているベッドの横で丸椅子に座り、文庫本の頁を捲っているではないか。
これはどういう状況だ?
「あ」
彼女は先達が目覚めたことに気付いて目を見開いた。
ふわりと微笑む。
「まだ無理しないで寝ててね、沙垣君」
格別喜んだり驚いたりするふうでもなく、ただ
だがそれがいかにも彼女らしい。
そうだ——思い出した。
自分は禍鵺と戦い、意識を失ったんだった。
そしてここは見知った学園内の保健室だ。
窓から見える景色にはすっかり霧がない。
身を起そうとして肩口から胸元にかけて痛みが襲った。到底起きられそうにない。
だがこうして無事保健室のベッドで寝ているところを見ると、致命傷には至らなかったらしい。
誰に助けられたか、何が起こったか——
訊きたいことは山ほどあったが、どれも言葉にできず、先達はしばらく口をぱくぱくさせていた。我ながらさぞかし間抜け面を披露していることだろう。
「あ、ええと……何でここに? 荻納さんが?」
——しくじった。
これじゃまるで嫌がってるみたいじゃないか。
「何でって、救護班だから。私」
事もなげに答える衿狭の言葉に、先達は安堵と同時に落胆を覚えた。
そういえばそうだった。彼女は救護担当としての職務を全うするために先達を看病してくれたのだ。それだけに過ぎない。
当たり前だ——彼女が自分を助けに来た先達に感謝してとか、もしくは禍鵺と戦う姿に惚れたとか、そんなことは最初から一ミリも期待していない。もしそんな奴がいたら致命的な馬鹿だ。いますぐ窓から身投げしたほうがいい。
そもそも——
我ながら無様と言うしかない。
禍鵺に対して逃げ回っているだけだったし、いくら赤色生徒会会長とはいえ同い年の女の子に助けられたし。カッコ悪いことこのうえないぞ。これで死んでたらカッコ
「あのね」
衿狭が少し身を乗り出してきた。
丸椅子が軋む。
「無理に答えなくていいんだけど……」
「な、なに?」
先達は無様なほど声を上ずらせる。
「どうしてさっき、図書室にいたの?」
「君が心配でね。助けに行ったんだ」
とは舌が裂けても言えそうになかった。
「ああ、うん。通り掛かって」
「警報が鳴ってたのに?」
「そだっけ? そういえば、そうかも」
先達がしどろもどろで話すのを、衿狭は動物でも観察するような目で見ている。
ふうん、と納得したのかしてないのかよく分からない声を漏らして身を引く。
窓の外を見ながらぽつりと呟くように言った。
「もしかして好きなのかなって」
「へえ⁉」
「本。図書室に来る人って珍しいからね」
衿狭は少し残念そうに言った。
そういえば彼女は本を返却しに図書室へ行ったのだった。
彼女は度々図書室に通い本を借りている。
もしかしたら同志とでもいうべきものを見つけた気分に、水を差してしまったのかもしれない。
だが残念なことに先達は小説の類をほとんど読まなかった。読むのは専ら漫画や雑誌程度だ。そもそも衿狭がどういう本を愛好しているのかも知らない。
そういえばそうだ。
本を読む彼女の姿勢や目線に気を取られるばかりで、それ以外のことに注意を向けられていなかった。そんなことに今更気付いた。
「本、よく読んでるよね。面白いの?」
ともかくも黙っていられず、先達は訊いた。
「ううん。全然」
「えっ?」
「ほとんどの本はね、ほんとに退屈。でもいいの。退屈ってことは、それだけ幸せってことだから」
「へ、へぇ。そういう見方もあるんだね」
正直彼女が何を言ってるのかよく分からなかった。
だが不思議と心地悪くはない。
彼女は最初に出会ったときからこんなふうに世のなかすべてを達観したような不思議な言葉を言う。その言葉ひとつひとつが先達のなかで何度も反響してやまない。
うまく言葉にはできないけれど。
「その、荻納さん」
「うん?」
「看ててくれてありがとう。救護班の仕事だとしても、嬉しかったよ」
「いいよ、お礼なんて」
「だけど僕の気が済まないんだ。何かお返し、みたいなことできないかなって……」
「へぇ。沙垣君って律儀なんだね」
「まぁその、僕にできることなんて、あまりないけど……」
「ズルい」
「えっ?」
「そんなふうに言われると、何もしなくていいよって言いづらくなっちゃうじゃん。沙垣君も結構ズルいね」
「い、いや、そんなつもりじゃ……」
「ん。分かった」
衿狭が立ち上がった。
「じゃあお返し、待ってるね。必ず何かして」
そう言って衿狭は少し笑った。
その笑顔に、先達はしばらく返事も呼吸も忘れて見入った。
「沙垣君が目を覚ましたのみんなに報告してくるね。安静にしててよ」
それだけ言うと衿狭は身を翻して保健室を出て行った。
艶やかな黒髪が靡いて揺れた。
ひとりベッドに残された先達は、自分の手を目の前に差し出し、握ったり緩めたりしてみた。
——こんなとき夢かどうか確かめるんだっけ?
いや、夢なら覚めてほしくない。
だけどこれは間違いなく現実だ。まさかこんなふうになれるなんて。
これって実質的に——
付き合える、ってことでは?
「いやいや、それは気が早い!」
先達はひとりで言ってから、まだ体中が痛いのを忘れてベッドの上でじたばたした。
完全に舞い上がってる。
そうと分かりつつ、抑えられなかった。
何か、これから何もかもがいい方向に進んでいくような——
そんな根拠のない予感が胸を満たしていた。
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