第七幕 三者三戦 ③

 


 ***


 沙垣先達は振り返った。

 誰か——多分誰かが遠くから叫ぶ声が聞こえた気がする。

 だが無人の廊下には物音ひとつ響かない。

 不気味なくらいの静寂に包まれていた。

——気のせいかな……

 そう思うことにして再び前を向いて歩き出す。

 腰に差した鉄刀は、今日はやけに重く感じた。


 禍鵺襲来を告げる第二級警報が鳴り響いたとき、先達は居ても立ってもいられなくなった。荻納おぎのう衿狭えりさがひとりで図書室に行ったと聞いていたからだ。

 康峰やすみねや他の生徒の目を搔い潜って講堂を出たのはほとんど無意識の行為だった。

 図書室へ向かって駆けながら、そもそも彼女に会ったところでどう声を掛けようとか、キモいとか思われないだろうかとか思ったが、今更引き返すわけにもいかない。

 尤もそう都合よくこの広い校舎内で衿狭が禍鵺に出くわすとは思えない。

 それに彼女はとても賢い。何かあったら真っ先に危険を察知して回避できるようなタイプだ。

 心配は空回りに終わるだろう——と言うか、終わってほしい。

——なんて言ってると、まるで死亡フラグだな。

 先達は苦笑して廊下を進んだ。


 やがて図書室まで来た。

 相変わらず人の気配はない。

 扉を引き開けた途端、思わず目を見張った。

 図書室のなかは屋外と変わらないくらいに濃い霧が立ち込めている。

 原因はすぐ分かった。カーテンが鴉の羽ばたきのようにばたばたと音を立てている。窓が開いていて外から霧が這入っていた。

 そのせいで室内の見通しが利かない。衿狭がいるかも分からない。

 大声でも出せば聞こえるだろうが——もしも禍鵺がいたら大ごとだ。

 黙って捜すしかない。

 先達は意を決して、図書室のなかへと踏み込んだ。


 室内は整然と本棚が並び、綺麗に片付いている。

 尤もほとんど誰も使わないから汚されることも少ないのかもしれない。先達もここへ来たのはしばらくぶりだ。一番頻繁にここを利用しているのは衿狭かもしれない。

 先達は部屋のなかほどで足を止めた。

 霧のなかに誰かのシルエットが見えた。

 先達は黙ってそれを観察する。

 すぐに声を掛けなかったのはそのシルエットがどうにもいびつだったからだ。

 確かに頭がある。

 肩、腕らしいものがゆらゆらと揺れている。

 その動きはまるでゼンマイ仕掛けの人形のようでぎこちなく、人間らしさがなかった。

 まるで——

 人外の何かが、人間の動きを真似ようとしているような……


「……沙垣君?」


 はっとして振り向くと声の主である荻納衿狭がそこにいた。

 目を丸くしてこっちを見ている。

 よかった! 無事だ。

「なんでここに?」

「あ、荻納さん、これはその——」

 がたん、と音がして椅子が倒れた。先達が思わず足を引っかけたのだ。

 反射的に正面に視線を戻したとき、霧のなかの《それ》は姿を消していた。先達は鉄刀を握りしめて素早く視線を周囲に巡らせた。


「沙垣君!」


 衿狭の声に反応するより早く霧のなかから化物の腕が伸びてきた。

 咄嗟に身を捻って避けた——と言うよりがむしゃらに後ろに転がった。

「痛っ……」

 その拍子に本棚に背中をぶつけ、声が漏れる。

 だが痛がってる猶予などない。

 霧のなか近付いてくる禍鵺に目を向けた。そいつの姿がさっきまでより見えてくる。

 仮面をつけたその顔や胴体は人間に近いものに見える。だが下半身は昆虫のような何本もの脚を持ち、しかも気味悪くそれぞれが動いている。

 両肩から伸びる腕も人間離れして太く、先端が包丁のように尖っていた。

 まるで巨大なカマキリのようなその腕が今度こそ自分に狙いを定めるように揺れている。


 立ち上がろうとした途端、腰に痛みが走った。

——まずい。

 これでは碌に走れない。

 血の気が引いた。


「沙垣君、こっち!」


 衿狭が机越しに叫ぶのが分かった。

 両手で机を持ち姿勢を低くしている。

 何をしようとしているのか、どうすればいいのか考えている猶予はなかった。

 先達はただ言われるがままに走って衿狭と並ぶ位置に付いた。

 それを見届けて衿狭は机を押し込んだ。

 机が禍鵺の胴体とぶつかる。禍鵺が少し押された。

 先達もすぐ衿狭を真似し、机を思い切り押し込んだ。

 だが禍鵺はほとんど怯む様子もなく身を捻ると、人間にはできない身のこなしで机の上に跳び乗り、すぐさまこっちへ襲ってきた。

——駄目か。

 このくらいじゃ奴は抑えられない。


「荻納さん、逃げて!」

 先達は隣に向かって叫んだ。

 助けに来たのに彼女の足手まといになっては元も子もない。何としても彼女だけは逃がさなくては。

 衿狭はその声に驚いたようにこっちを見て目を見開いた。

 そっちに向けて禍鵺が鎌を振り上げた。

 咄嗟に先達は刀を鞘から引き抜いた。

 振り上げた鉄刀で禍鵺の腕を叩き切る。

 衿狭に注意を向けていた禍鵺に横からの剣戟を躱す余裕はなかったようだ。鎌を持った腕が床の上にぼとりと落ちた。


「Яユw9繝%——!」


 禍鵺が絶叫を上げる。

 先達はすかさず禍鵺に向き直った。だが禍鵺は身を翻し霧のなかに隠れた。

——逃げる気か?

 一瞬そんな甘い期待が頭を過ったからか、先達の鉄刀を握る両腕から力が抜けた。

 不意に霧のなかから伸びてきた細長い何かがその先達の手元に絡みついた。

 ぎょっとして振りほどこうとする。だがことのほか力が強く離れない。

 動揺のうちにまた霧のなかから伸びてきた腕が先達の首に巻き付いた。

 今度は人間のような、しかし丸太のように太い腕が先達の首を圧迫した。

 霧のなかから化物が再び姿を現した。


 その姿に先達は戦慄した。

 禍鵺の肩より下辺りから腕が伸びている。いや——この場合は生えたと言うべきか。元々のカマキリのような腕ではなく、猿の尻尾のような細長くしなやかな腕、丸太のような太い腕、計五本の腕が奴の体から生えていた。

——こんな禍鵺がいるだなんて……

 太い腕が先達の喉を締めつけている。

 鉄刀を手放し、両手で振りほどこうとしたがびくともしない。

——殺される?

 意識が薄れかけたそのとき、霧のなかから一閃した影が禍鵺の懐に入り、霧と同時にその太い腕を切り上げた。


「Яユw9繝%——!」


 禍鵺は怯み、また霧のなかへ身を隠した。

 解放された先達はその場で床に手を着いて呼吸を荒くした。

 そんな先達に背を向けて立ちはだかった少女——紅緋絽纐纈べにひろこうけつ紗綺さきが言った。


「もう大丈夫だ。あとは私に任せてくれ」


 

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