第七幕 三者三戦 ②
トイレのなかは正面奥に窓が付いている。
その窓が開いているのだろう、校庭に広がる霧が隙間から少しずつ侵入していた。
とはいえ見通しが利かないほどではない。
ふたつの個室のうちひとつは扉が閉まっている。
灰泥煉真は軛殯康峰を振り返って言う。
「悪いな、先に俺が使わせてもらうぜ」
「待て、お前小便じゃなかったのか?」
「ああ」
「なんで個室に入ろうとする?」
「別にいいだろ。俺はいつもそうしてる」
「……なんで?」
「家庭の事情の次は便所の事情か? 人が大便器使おうが小便器使おうが勝手だろ。そっちのが落ち着くんだよ」
「灰泥君、教師としてお前に大事な社会のルールを教えといてやる。譲り合いの精神こそ社会円滑の第一歩だ」
「まさか便所で授業を聞くとはな。しかも最初の」
「具体的にはトイレに行って個室がひとつしか開いてなくて、しかもすぐ後ろに大便をしたい人がいた場合……」
康峰がふと言葉を止める。
「ひとつしか?」
しっかり閉じられた個室の扉を見る。
煉真も振り返ってそっちを見た。
扉は不気味な沈黙を保っている。
——誰だ?
生徒も教師も基本的にすべて講堂に集まっている時間のはずだ。逃げ遅れた生徒か? いや、だとしたらこれだけ近くで話し声が聞こえているのに何の反応もないのは不自然だ。
煉真は自然と身を強張らせた。
恐らく隣の康峰も同じだろう。
ふたりは足音を立てないようゆっくり個室の扉に近付いた。
物音は聞こえない。だがかすかに人の息遣いのようなものは聞こえる。
——誰かはいる。
煉真はそっと扉に手を掛けた。
康峰が唾を飲み込む。
息を吸うと、ぐっと手に力を掛けた。
が、扉はやはり鍵を掛けてあって開かない。がちゃがちゃとノブの金属が音を立てるだけだった。
「ひぃっ!」
なかから怯えたような男の声がした。
恐らく生徒のものだろう。
「おい、誰だ? こんなところで何をしている?」
相手が生徒と分かって康峰が口を開いた。
「ま、禍鵺はいないか?」
なかの生徒が言った。
「いたらこんなお喋りしてると思うか? 何でそんなことを訊く?」
「よかった。さっき校庭で出くわしたんだ。霧のなかからいきなり現れて、しかも俺を目掛けて突っ込んできたもんだから……殺されるかと思ったよ」
「お前もしかして青色生徒会か?
——なんて奴だ。
煉真は舌打ちした。
青色生徒会は学園でも特に優れた生徒を集めたものであるはずだ。それが禍鵺を目の当たりにして便所に逃げ込むとは。
会話に反応しなかったのは大方耳を塞いでいたからに違いない。
縮み上がって便器の上で膝を抱えている姿が目に浮かぶようだった。
「てめぇふざけてんのか? 生徒会が真っ先に逃げてどうする?」
煉真は力任せにノブを引っ張ったり回したりしながら言った。
「む、無茶言うなよ。俺たちが青色生徒会になる際に《
「んなもん承知の上じゃねぇのかよ?」
「俺はただ殺されたくないだけだ。なのに、生徒会に入ってもこうして前線に連れ出される。化物に襲われちゃひとたまりもないってのに……」
「そうならねぇように《冥浄力》持ちが禍鵺を殺すんだろうが」
「信用できるかよ、あんな奴ら。そもそもこの学園の仕組みがおかしいんだ、そう思わないか?」
「知らねぇよ。いいからさっさとここ開けろ、
康峰が煉真の肩を掴むと、苦しそうな声を絞り出した。
「は、灰泥、じゃあ俺は隣、使うから……」
「は? 俺が使うって言ってんだろ」
「うるさい、もう用が足せると思ったらさっきまで我慢できてた分がもう我慢できないところまで仕上がってんだ。これ以上は漏れる。お前は小便器——」
そのとき。
いきなり天井から何かが降り、康峰の背中に飛び掛かった。
「繧Дke☆7——!」
白い仮面の奥からくぐもった奇声が鳴る。
妙に細長い両腕と両足。
一見すると猿のようだが、長い尻尾はまるでそれ自身が意思を持った蛇のようだ。
禍鵺にしては小柄だが、顔面の白い仮面や黒ずんだ肌はこいつが紛れもなく奴らの一種であることを雄弁に物語っている。
油断していた——と言うか、予想できなかった。
そいつは天井に張り付いていたのか、突然降りてきて康峰を襲ったかと思うとその体を地面に叩きつけた。更に尻尾を唸らせて喉を締めようとする。
個室のなかの男がまた情けない悲鳴を上げた。
煉真は禍鵺を力任せに蹴り上げた。
禍鵺は悲鳴とともに康峰から離れて洗面台、天井と慌ただしく飛び回り、今度は煉真目掛けて急襲してきた。
煉真の視界が闇に覆われる。
「灰泥!」
康峰の叫ぶ声が曇って聞こえる。
煉真は顔面の《猿》を引きはがそうとしたが思いのほか力が強い。それにこの近距離では拳も足もまともに使えない。
——息ができねぇ。
急速に苦しくなるのを感じた。
咄嗟に窓のあったほうへ裏拳を叩き込んだ。
窓硝子が砕け散る。
その破片を手探りで掴むと、思い切り《猿》の背中に突き立てた。
「q、Яユw9繝%——⁉」
禍鵺が絶叫をあげて飛び退く。
ようやく解放された視界で煉真は刺された禍鵺がよろめきながらも飛び回り、やがて割れた窓から外へ逃げようとするのを見た。
「待ちやがれ!」
煉真はそれに続いて床を蹴り、窓から外へ飛び出した。
校庭は紅い霧に覆われている。
砂利の上に着地した煉真は周囲を見回したが、既に霧が禍鵺の姿を隠していた。
「おい灰泥! 無事か?」
トイレのなかから康峰の声が聞こえる。
ムカつくが、この霧では逃げた《猿》を見つけるのは難しそうだ。
一旦諦めるしかないか——
そう思ったとき、ふと霧のなかを動く何かを見つけた。
さっきの禍鵺とは違う。
だが何かがいるのは間違いない。
そいつは霧のなかを悠々と歩いている。
煉真とそう体格は変わらないように見えた。
ゆっくりと霧が動いて、その姿が見えてきた。
——まさか。
全身黒のスーツ。
肩に抱えた真っ赤な金属バット。
フルフェイスのヘルメット。
呼吸が止まる。背筋が凍り付く——そんな在り来たりな表現しか思いつかないが、確かに衝撃が煉真を襲った。
「灰泥、どうした? 奴はどうなった?」
「……悪い、センセー」
煉真は呟くと、霧のなかに消えようとする男のほうへ向かって駆け出した。
背後から情けない悲鳴が聞こえた。
「待て灰泥! 俺を置いて行くなぁ! ……畜生、とんだ案内役だ!」
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