第五幕 新任教師と問題児 ④

 


「……お前らはそいつと何も関係ないだろ」

 煉真れんまはようやく声を絞り出した。

 何とかしてこいつらから死体を引き離さないといけない。

 油性ペンを持った馬鹿面が鼻で嗤って言った。

「だから何? 関係ねぇだろ。それともレン君はやっぱ真面目だから——」

「おい。最後の忠告だ。やめろ」

「はぁ? 何だ、命令してんのか?」

「聞こえなかったか?」


 男が康峰やすみねの髪から手を離してこっちに向き直った。

 がくり、とこうべを垂れた康峰が勢いでベンチからずり落ちそうになる。

 単に眠っているにしては妙な動きだ。男のひとりが訝しげにそっちへ近寄った。

「やんのか? 俺らに手を出すってことは火滾かたぎりさんに——」


 最後まで聞かず、煉真は踏み出していた。

 男の顎を下から蹴り上げる。

 激しい振動が男の脳を襲ったはずだった。舌を嚙んだのか、口から血を噴き出しながら男はその場に昏倒した。


「お、お前!」

「ちょ、レン⁉ 落ち着けって!」


 周囲の声がぶつかり合う。

 やってしまった、という思いと、やるしかなかったという思いが交錯する。

 だがこれで終わりだ。

 あとはこいつらを適当に追い返して——

「おい、こいつ死んでっ……!」

 その言葉が鼓膜に届いた瞬間には煉真の第二撃が飛び出していた。

 康峰の顔を覗こうとしていた男の側頭部に踵を叩き込む。

 男の図体が二、三メートル先の茂みまで吹っ飛んだ。


 ——そこからあとはもう無我夢中だった。

 残った男たちは身の危険を感じたのか、怒り心頭に来たのか、ともかくこぞって煉真に拳を振り上げた。

 何発かその攻撃を食らったが、その倍の勢いで煉真は殴り返した。

 男たちは血を噴き出し返り血が煉真の額を、髪を、目を濡らした。    

 どうしてこんなことになってるのか。

 どこで選択を間違えたのか。

——分からねぇ。

 いきなり、場違いな柏手が鳴り響いた。


「はーい。もう止め、止め」


 聞き覚えのある声に煉真の動きが止まった。

 男のひとりの胸倉を掴んだまま、声のしたほうを見る。

 公園の入り口に、数人の取り巻きとともに髭面の男がいて手を叩いている。こっちを見ながら薄笑いを浮かべていた。

——火滾……

 例の男がそこにいた。


「相変わらず乱暴者だなぁ、レン?」

 近づいてきた火滾は言った。

 表情は笑っているが、目元は穏やかではない。

「火滾さん……」

「ずいぶん可愛がってくれたなぁ、俺の後輩たちを。えぇ? 何か言い訳ある? 聞いてやっていいぞぉ」

 取り巻きたちは黙ってこっちを睨んでいる。火滾の号令があればすぐにでも襲い掛かってくるだろう。

 そうなれば勝てる見込みはなかった。

 肩で息をしながら煉真は唇を舐める。

 顔に付いた返り血を腕で拭った。


——いつもこうだ。

 いつも、どうしてかこうなる。気が付くと俺はいつも。

「黙ってちゃ分からねぇよ、レンちゃん。なぁ」

「火滾さん」

「うん?」

「《祭り》には行く。必ず」

 火滾は鼻で笑った。

「オイ、ンなことは分かってんだよ。それだけか? それでこの始末をチャラにしてくれってか? 全く……呆れた奴だよ。まぁ、お前らしいと言えば、らしいが——よいしょ」

 火滾はしゃがみこむと煉真にのされた連中の顔を覗き込んで言った。

 どいつも意識を喪ったり呻いたりしているが致命傷にまでは至っていない。

 それを確認して火滾は改めて煉真に目を向けた。

 ごくり、と煉真は唾を飲み込んだ。

 火滾は顎髭を撫でながら、値踏みするような目を煉真に向けている。

 目の前の男をどう処分するか——そう思案している顔だ。

 やけに一瞬一瞬が長く感じられた。

 火滾の唇が開かれたそのとき、


「……はぁっ⁉」


 突然ベンチから突拍子もない声が弾ける。

 煉真も火滾も咄嗟にそっちへ目を向けた。

 ベンチの上で横になっていた人物が身を起こして頭を振り、慌ただしく周囲を見回していた。口からは激しく空気が出入りしている。

 煉真は思わず後ずさった。

——死んでなかったのかよ⁉

 そう叫ばなかったのはほとんど奇跡だ。


 だがぎょっとしたのはむしろ本人のほうだ。

 無理もない。殴られて意識が消えたかと思ったら気付いたときには足元に血塗れのゴロツキが数体転がっているし、自分を殴った男は返り血に染まっているし、火滾のような到底堅気に見えない男たちまでいるのだ。

「おい灰泥煉真、これは……ごふっ、げほぉ!」

 慌てて喋ろうとして康峰は噎せた。


「ま……いいだろ」

 火滾がおもむろに立ち上がって言った。煉真の肩に手を置く。

「今回だけ見逃してやる。その代わり《祭り》には必ず来いよ。いいな」

「…………」

「返事は?」

「あ、ああ」

 煉真の答えに火滾が満足したかどうか分からない。

 それでも男は最後にじっと煉真の顔を見たあと、踵を返して公園から出て行った。

 取り巻きたちが倒れたゴロツキを担ぎ上げて去って行く。

 煉真は黙ってそれを見送った。

 後にはひたすら噎せ続ける教師と煉真だけが残された。



「……そんなに強く殴らなかったろうが。てか本当に死んでたのか?」

「俺は強いショックや攻撃を受けると心臓が止まりやすい体質なんだよ」

「どんな体質だよ……」

 煉真れんま康峰やすみねは公園から出て歩きながらそんな会話をした。

「そんなことより、さっきの連中は何だ?」

「はぁ、生き返ったらまた質問攻めかよ。面倒臭えな。もっかい殺しとくか?」

「おい!」

「冗談だって」

 煉真はふっと笑ってすぐ表情を引き締めた。

 あれ。何でいま俺笑ったんだ?

 ついさっきまで喧嘩してて、火滾に目を付けられて、人殺しになりかけて——いろいろあった反動だろうか。

 こんなのはいつぶりか分からない。


「まぁ何にせよ……約束は約束だからな。守ってもらうぞ」

 警戒するように煉真から少し距離を置きつつ、康峰は言った。

「約束?」

「惚けるなよ。俺を殴ったら学園に行くと約束しただろ?」

「ああ……そうだっけ」

 煉真はすっかりそのあとの珍事件の連発で忘れていた。

 溜息を吐く。

「もし約束を守らなかったら?」

「いや。守る」

 康峰はやけに自信ありげに言った。「お前はそういうタイプだ。多分」

「分かんのか?」

「少なくとも目の前で死人が出たら見捨てず運ぼうとする奴だ」

——ホントは捨てようとしてたんだけどな……

 煉真は溜息を吐いた。

「分かった分かった。明日は出てやるよ。だからもうあんたも帰れ」

「えっ、本気か?」

「そう思ってたんじゃねえのかよ」

「いや、まぁそうだな。うん。必ず来いよ」

「おう」


 煉真の住むアパートはもうすぐだった。

 康峰はようやく約束を取り付けて安堵したらしい。ふたりは交差点でようやく分かれた。

 煉真はふと立ち止まって康峰を呼び止めた。

「ああそうだ。おい、センセー」

 道を戻ろうとしていた康峰が振り返る。

「生徒たちにひとりひとり会いに行ってるって言ってたな」

「ああ。それが?」

鵜躾うしつけ綺新きあらに会うときは財布に気を付けろよ。あいつも教師のポケットに手を出すとは思えねぇけど、一応な」

 そう言われた教師は複雑な表情をする。

 猫が変な匂いを嗅いだときみたいな顔だ。

「何だ?」

「あ、いや……気を付けるよ。じゃあな」


——疲れた。

 アパートの階段を上りながら煉真は思った。

 ちょっと煙草を切らして買いに出かけただけなのに、この疲労感は何だ。厄介な男に付き纏われるわ血みどろの喧嘩に巻き込まれるわ、おまけに明日は久々に学園に顔を出さないといけないと来た。

 それなのに——

 不思議と嫌な気分でもない、気もする。

 それがかえって気に食わない。

 何だか認めるのが癪だった。

「……ヘンな教師もいたもんだな」

 呟いて鼻で笑った。


 玄関のノブに手を掛けて、ふと動きを止めた。

 それはよく耳を澄まさなければ気付かなかったほどの小さな音だった。

 それでもすぐ煉真がその音に反応したのは、聞き覚えのある波長だったからかもしれない。


 調子っぱずれな口笛の音。

 それに続けて響く、金属の棒が地面を擦る音。


 無意識に全身の筋肉が緊張した。

 音が背後に迫ってきている。もう耳を澄まさなくても聞こえるほどに。否応なく鼓膜を鳴らし、脳のなかを蹂躙し、記憶の扉をこじ開けようとしている。


 本当は気付いてた。

 もしかしたら、とずっと思っていた。

 幼い頃に見たあの兄の最後。

 自分を殴ったあと、金属バットを地面に擦らせ口笛を吹きながら去って行ったあの背中。

 島内で殺人バットの噂を聞き始めた頃から何年も記憶の奥に封じていたその情景を思い出さずにいられなかった。

 それでもそんなはずがないという思いが無意識に煉真を記憶から遠ざけていた。

 そう思いたかっただけかもしれない。

 だが——

 それはもう無視できない距離まで近付いている。

 煉真は動けなかった。

 玄関扉に落ちた自分の影を見続けた。

 不意にその影が別の影と重なった。

 耳元で声が囁く。


「《順番》は守ってるか?」


 素早く振り向く。

 拳を固め、身構えたが、そこには夕日に照らされたいつもの光景が広がるだけだった。誰の姿もない。

 ただあの耳障りな口笛だけが高らかに響き続けている。

 額から一滴、冷たい汗が滑り落ちた。


 

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