第五幕 新任教師と問題児 ①

 


 男と女の怒鳴り合う声。

 狂ったように吼え続ける犬。

 通りを走るパトカーのサイレン。

 幼い日の記憶はいつもそんな雑音とともに蘇る。


 その日——

 兄貴は台所でピザに齧りついていた。

 口の周りが真っ赤に汚れても気にもしない。ピザからコーンやケチャップがぼろぼろと落ちた。落ちたケチャップが血の海の赤と混じる。

 そこにはもう動かなくなった父が頭から血を流して転がっていた。


「俺たちは使徒に感謝しなくちゃいけねえな。あと、禍鵺マガネにも」

 兄が言った。

「知ってるか? 使徒はまだ俺らくらいのガキを集めて四方闇島よもやみじまってところで禍鵺と戦う訓練をつけてるらしい。奴らよっぽど急いでるらしく、手に入るガキなら誰でもいいんだとよ。人殺しでもオーケーだ。おかげで俺たちみたいなモンでもムショにぶち込まれることなく四方闇島行きになるだろうよ」


「兄ちゃん……」

 やっとそれだけ声が出た。

 情けないくらいに震え、掠れた声だ。

「けど俺は行かねえ。何が使徒だ。使い捨ての駒にされるくらいなら使徒をぶっ殺す。行くならお前ひとりで行け」

「兄ちゃんはどこに行くんだ?」

 やっとのことでそれだけ訊いた。

 本当はもっと訊きたいことがあったはずだが——父の死体からは目を逸らした。

 兄の目がようやくこっちを捉えた。

 ピザを飲み下して言う。

「順番を間違えてんじゃねぇよ」

「順番?」

「順番ってのは凄く大事だ。俺は順番を守れない奴が一番ムカつく。お前も次に順番を間違えたら殺すぞ?」

「順番を間違えたから……殺したの?」

「親父か? まぁ、そんなところだ。こいつの所為で母さんは死んだ。こんな奴の所為で死ぬべきじゃなかったんだ。俺たちのほうがよっぽど馬鹿でさっさと死ぬべきなのに、いい人ほどさっさと死んじまう。だから誰かが順番を正さなきゃ駄目だ。こいつが先にくたばるべきだったんだ」

「兄ちゃん、俺は——」


 兄の目が細められた。

 次の瞬間、床にあったバットを掴み上げると、力任せに振った。

 激しい痛みに意識が明滅する。

 薄れゆく意識のなかで、兄が背を向けて歩いて行くのが見えた。

 声は出ない。手も動かない。

 ただ耳だけが、兄のいつもの口笛の音を聞いていた。あの調子っぱずれの甲高い音色を。

 その音が脳のなかを繰り返し反響して——


 気付けばパトカーのサイレンが鳴っていた。

 床に倒れた自分を大勢の大人が囲んでいる。

 自分に話しかける警官の声より、吠え続ける犬や男女の話し声が煩くてよく聞き取れなかった。

 兄の姿はもうどこにもない。

 遠巻きにこっちを見る大人たちの視線がやけに記憶に残っている。あの恐れるような、憐れむような目つき。

 あれが——

 あの日が、すべての始まりだった。

 あの兄の言葉。

 あの日見た背中。



「……順番か……」

 灰泥はいどろ煉真れんまは呟いた。

 ゆっくり瞼を開く。

 ずいぶん熟睡していたみたいだ。何時か分からないが既に日は西に傾き始めている。昨夜遅くまで吞んでいた記憶はあるが、いつ寝たのかも分からない。

 カーテンの隙間から厚かましく日光が忍び入っている。

 体を捻って日の光から背を向けようとしたら足元にあったビールの缶が倒れた。中身がまだ入っていたらしく、床が濡れる。舌打ちした。

 このまま眠る気にもなれず、体を起こしてビールの缶を処分する。濡れた床は——まぁ後で何とかするとしよう。

 とりあえず顔でも洗いたい。

 散らかった床のごみを避けたり踏んだりしながら何とか洗面台の前に辿り着くと、蛇口を捻って水を出した。


 二、三度冷水を顔に浴びせると、意識が少し覚醒してきた。

 ふと見ると鏡には充血した目でこっちを睨む男の顔がある。

 剃った眉。

 グレーの髪。

 額から右頬にかけて走る傷跡。

 そして我ながら見ているだけでムカついてくるような視線。それがいまはやや充血してまるで飢えた狼が獲物を捜しているようだ。

 いや——

 それより週刊誌やテレビのニュースで見る犯罪者の顔に近いか?

「くそったれ」

 鏡から背を向け、冷蔵庫に向かった。


 あり合わせのものを胃袋に詰め込みながらぼんやりと部屋のなかを眺めた。

 この部屋に来てもう数か月になるだろうか。

 鴉羽からすば学園の学生寮を飛び出して最初は行き場もなく途方に暮れていたが、ある知り合いのお蔭で何とか住処にありつけた。

 狭くて汚い場所だが他に行き場もない。

——いつまでもこんな生活はできねぇ。

 それは煉真も分かっている。

 それでもいまは何も思い浮かばなかった。

 食事を終えて一服しようと煙草のケースを見る。また舌打ちが出た。ケースのなかはもう空になっている。

「……買いに行くか」

 けだるげに髪を掻きながら、煉真は靴の踵を踏んで外に出た。



 自販機から取り出した煙草を吸いながら、灰泥煉真は何気なく遠くを見る。

 港近くのこの周辺では水平線が見えた。

 同時に磯の香りが否応なく漂ってくる。

 どれだけ嗅いでも慣れないあの不快な臭い。自然と煉真の眉間は険しくなる。

 海は嫌いだ。イワシも。

 と言うかこの島にあるもの全般が嫌いだ。

 無意識に煙を作るスピードが上がった。


——ふざけやがって。

 好きでこんな島に来たんじゃない。

 好き好んで化物と戦ってるわけじゃない。

 煉真の場合は兄が犯罪を犯した。身寄りがなくてこの島に送られることになった。まだ幼い日のことだ。どうしようもなかった。

 別に島の外に出てやりたいことがあるわけでもない。

 ただこんな理不尽に自分の人生が食い潰されていると思うと、身体の芯が熱くなってやり切れない思いに駆られる。それが原動力となって過去に何度も島から脱走を試みてきた。

 で、その度に青色生徒会の連中にぶちのめされてきた。

——ムカつく。

 青色生徒会の連中は強いわけじゃない。単純な筋力や運動神経なら煉真のほうが断然勝ってる。だが奴らには《冥殺力》がある。

 あれさえなければ煉真が負けるはずがない。

 次第に煉真の目的は島を出ることではなく、青色生徒会の連中をやり返すことになって行った。

 それはいまでも変わらず——


「痛ってぇ!」

「あ」


 考えながら歩いていた所為か、誰かとぶつかってしまった。

 ぶつかった相手は潰された蛙のような悲鳴を上げて尻餅をつく。

 煉真としては軽く肩がぶつかった程度だと思ったが——どうやら相手にとってはそうでもなかったらしい。

 男は身を起こして煉真に詰め寄った。

「何しやがる!」

「ああ。悪い」

 煉真は煙草を銜えたまま言った。

 そんな煉真の誠意のこもった謝罪のどこが気に入らなかったのか。男は噛み付きそうな目でこっちを睨み続ける。

 煉真も黙って男を観察した。

 中古屋でも売れ残りそうな白衣。

 如何にも雑に肩まで伸びた白髪。

 それに松葉杖の所為で最初は病院から逃げ出してきたジジイかと思ったがよく見ると顔つきは若い。松葉杖は足を怪我している所為らしい。

 青褪めた顔や暗い眼は一瞬死神を思わせた。

——白化病はっかびょうか。

 島内には白化病患者も少なからずいる。別段珍しくもない。


「おい、ぶつかっておいて——ん? お前もしかして……灰泥はいどろ煉真か?」

 男の声色が途中で変わる。

 煉真の眉間がぴくりと震える。

「何で知ってやがる?」

「げっ、やっぱりか……」

「何だその反応」

 男は困ったように頭を掻いてから言った。

「俺はお前の教師だ」

「は?」

「鴉羽学園に新しく就任した教師だ。しかし参ったな、まさかこんなところで例の生徒に出くわすとは……」


 煉真は改めて目の前の男をしげしげと見た。

——こいつが教師だって?


 

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