第三幕 新任教師と生徒会長(赤) ⑤

 


 暴力男の腕から何とかもがき出て、康峰は漆九条とやらの前に出た。

「おい、どういう状況か知らないが暴力沙汰らしいことは分かる。それは困るぞ。実に困る。そういうことは余所で——いや、話し合いで解決するんだ。怪我でもしたらどうする?」

——俺が。

 そんな康峰の必死さを前に、眼鏡男は黙って冷ややかな目を向けている。

 スーパーの鮮魚を見るような無関心な視線だ。


「他に何か方法はないのか? 俺はこれでも教師だ。手伝えることならやる」

「ほう。どうして我々の味方を?」

「お前たちもこの学園の生徒だろ。教師なら生徒の味方をするもんだ」

「生魚のように臭いますね。それが本心と証明できますか?」

「これを見てくれ」

 康峰は懐に右手を差し入れた。

 漆九条や他の連中の目線が集まる。


「……隙あり!」


 康峰は素早く——少なくとも自分に可能な最大限の速度で、左手に持っていた松葉杖を漆九条目掛けて振り上げた。

 だが漆九条は身を反らせて易々と康峰の渾身の一撃を躱した。

 松葉杖は空を切り、思いがけず明後日のほうへ吹っ飛んでしまった。

 ついでに康峰は前に倒れ、漆九条に土下座するような恰好になってしまう。

——やっぱり慣れないことはするもんじゃなかった……

「残念ですね、先生」

 漆九条が眼鏡のつるに触れて悠々と言った。

 彼らの視線はこの数秒間、完全に康峰に集中していた。

 そしてそれを不覚と気付く隙を与えるほど紗綺さきたちは気を緩めてはいなかった。


「いまだ!」


 紗綺が刀の鞘を漆九条の傍らの男に振るう。

 脇腹を打たれた男は漆九条にのしかかる形で倒れた。

 同時に鍋島村雲が懐にしていた何かを素早く取り出し、男たちに向かって投げた。

 途端に鼓膜を破らんばかりの轟音が炸裂する。辺りを濃厚な煙が包み込んだ。


「逃げろ!」


 煙幕のなかで男たちの怒声や叫喚が響くなか、一際まっすぐな紗綺の号令が響いた。

 竜巻や村雲が走り出す。

 まだ煙のなかで混乱が広がっている。様子は見えないが漆九条が起き上がって紗綺らを追うまで十分な時間があるだろう。

 漆九条の怒声が響いた。

「くそっ、逃がすな! 絶対に捕まえろ!」


 そんななか康峰は——

 咳が止まらなかった。まともに煙を吸い込んだらしい。

 ついでに倒れた際の衝撃で腰を痛めたのか、まともに走ることさえできず、這い回りながら手探りで外の方向を探した。

 だが足元に転がる男の肉体に躓いてまた倒れた。どうやら既に数人の男が倒されているらしい。やったのは馬更竜巻か鍋島村雲か、或いは紅緋絽纐纈紗綺か。この視界でよく戦えたものだ。


 いや。

 何かおかしい。

 康峰はどろりとした指先の感触に違和感を覚えた。男の体に触れたその指先を見ると、鮮やかな血が指先を汚していた。男は頭からいまも血を流し続けている。

「あいつらがこれを……?」

 それにしてもずいぶん派手な出血の仕方をしている。

 まるで——

 金属バットか何かで殴られたような……


 ぱきり。

 目の前で金属片を踏む音がした。

 康峰はゆっくりと視線を上げる。

 目の前に立ちはだかった人物を見上げた。

 煙のなかからそいつは少しずつ姿を見せた。

 漆黒のフルフェイスヘルメット。

 同じく真っ黒なジャージ。靴先まで黒い。

 そして真っ赤な血に染まった金属バット。


『実は三か月近く以前から、島内に正体不明の通り魔が現れるようになりました』

『全身黒で包んだ姿に、夜道に現れることから《殺人バット》と呼ばれています』


 鬼頭きとうから聞かされた話が否応なく思い出される。

「おっ、お前っ!」

 漆九条のひっくり返った声にヘルメットが旋回した。

 声の主を煙のなかに見止める。

 煙の向こうから姿を見せた漆九条は、殺人バットを見てあからさまに動揺していた。

「俺を狙ってきたのか⁉ そうなんだろ!」

 漆九条がそれでも吠えながら手を翳すと、その腕を青い炎が巻き付いた。

「いいぜ、かかって来いよ、やってやる!」

 漆九条が殺人バットに向けて鉄刀を構え、振り下ろした。

 青い炎を纏った刀身が漆黒のヘルメットに襲い掛かる。

 だがそれがヘルメットに当たるより早く、黒い手が漆九条の腕を掴んだ。

 鉄刀が震える。

 手首を砕こうとするような強い力が漆九条の顔を苦悶に歪ませた。

「なっ、何でお前……」


 殺人バットの腕から青い炎が上がっている。

 その蒼炎は漆九条のそれより激しく、殺人バットの体から燃え立っていた。

「なんでお前がっ——」

 震える漆九条の言葉を遮り、金属バットが大きくスイングした。

 少年の顔面を容赦なく金属棒が襲う。

 骨が粉砕される厭な音とともに、血が弾け、割れた眼鏡が康峰の眼前に落ちてきた。

 地面に倒れた漆九条に、殺人鬼はすぐさま追い打ちを食らわせる。彼の腹に容赦のない一撃を振り下ろした。

 漆九条の体がくの字に曲がり、血を吐いた。


「……たっ、たすけ——」


 その顔面を容赦なく金属バットが振り下ろされる。

 飛び散った鮮血が康峰の頬を濡らした。


 何だ。

 何なんだこの学園は——?

 康峰はどくどくと身体のうちを血流がのたうつのを感じた。

 恐怖、動揺、怒り、衝撃、そのどんな表現も間に合わない震えに、目の前で起こる惨劇に、肉体が拒否反応を起こしているようだった。吐き気が込み上げてきた。


「先生、しゃがめ!」

 煙を引き裂くように紗綺の声が響いた。

 咄嗟に康峰は身を屈める。その頭上で、現れた紗綺が殺人バットに刀を薙いだ。

 だが咄嗟に声に反応したのは殺人バットも同じだった。振り向きざまに紗綺の刀身を受けようとする。

 だが倒れた男に足を取られて受けることができなかった。軽やかに後ろに飛び退き、紗綺と距離を取る。

 紗綺は相手を見据えて刀身を構え直した。

「先生、ここは任せて逃げてくれ!」

「そ、そう? じゃあ遠慮なく……」

 康峰は紗綺らに背を向けて無様に走ろうとした。

 だがまたも倒れた男に足を取られ、派手に倒れて額を打ち付けた。

 ぷつん、と糸が切れるように。

 深い闇のなかへ意識が沈んで行った。



「先生、起きてください」

 ぼやけた意識がゆっくりと鮮明になっていく。

 まだ脳内に霞がかかったような気持ち悪さと、ひりひりした痛みが頭蓋骨を刺激しているが、どうやら意識を取り戻したらしい。

「うっ……先達せんだつか?」

「はい」

「さ、殺人バットがいるぞ」

「それならもう全部終わりましたよ。殺人バットは逃げました」

「逃げた?」


 康峰は体を起こした。

 まだ体の節々が痛い。

 さっきまでと違ってずいぶん閑散としている。日はすっかり沈んで辺りを闇が包もうとしていた。先達の顔もほとんど見えない。

 見ると数人の白い制服に身を包んだ連中が慌ただしく周囲を走り回ったり何か話し合ったりしていた。

 服装や雰囲気から言って彼らが天代守護てんだいしゅごと呼ばれる連中だろう。

 殺人バット出現時の後処理に奔走しているらしい。

 そして見渡した限り。

 紅緋絽纐纈べにひろこうけつ紗綺も馬更竜巻も鍋島村雲も、彼らを罠に嵌めようとした連中ももういない。


「あの人たちならもう帰りましたよ。先生は死んでたんで、遺体として処理されそうだったのを急いで止めたり、先生の体質のこと説明したり、大変でしたよ」

「そうか……」

 先達が来なければ今度こそ死体として処理されていたかもしれない。


——とんだ一日だ。

 命がいくつあっても足りない。

 洒落でも比喩でもなく。

「……本当にここはとんでもない学園だな」

 康峰は改めて起き上がろうとしたが、腰の痛みに慌てて地面に手を着いた。何とも情けない。

 こんな場所で今後、やっていけるのか——?

 と言うか、やっていくべきなのか。


 霧のなかから襲い掛かる化物。

 神出鬼没の殺人鬼。

 更にあの生徒たち……

 鬼頭から話を聞いた時点で相当危険なのは予期していたが、実際目の当たりにすることで身に染みてきた。

——やっぱり無理かもな、この仕事……

 というか、ここにいたほうが死ぬ確率が高くないか?

 このさき生徒たちを授業に引っ張り出すとして、その間に何度死に掛けるか分からない。いや、普通に死ぬと思う。

 絶対向いてないし……


「あの、紅緋絽纐纈会長が最後に、先生にこう伝えてくれって……」

 康峰は顔を上げる。

「何だ?」

 先達は申し訳なさそうに呟いた。

「『私たちに教師は要らない』——と」


 康峰は溜息をついた。

 足元の瓦礫を拾って落とす。

 瓦礫は音を立てて足元を転がった。

「それで、これからどうします?」

「次だ」

「次?」

「次の生徒だ。あの三人は手強い。先に他の生徒に会いに行くぞ。そんで他の連中がみんな授業に出れば、奴らも気が変わるかもしれない。ともかく最初にあいつらに会ったのは分が悪かった。明日は別の生徒のところへ案内してくれ」

「はぁ。他の生徒って言っても……そううまく行きますかね?」

「うまく行かせるしかないんだよ。でなきゃ俺の食い扶持が……いや、とにかく! 次だ、次!」

 夜に落ちる瓦礫の上で、康峰は空しく声を張り上げ——

 また、噎せた。


 

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