第三幕 新任教師と生徒会長(赤) ①

 


——泣いている。


 縁側から見える空はどこまでも青い。

 ゆっくり運ばれる雲を見ているとこころまで澄み渡るようだ。

 それなのに、いつだってこの人は泣いている。

 いや、その原因はいつも自分にあるのかもしれない。いまだって自分が泣かせてしまっているのだ。


「どうして……あんなところに、自ら行こうだなんて」

 母は声を詰まらせてまた涙を流した。

 手拭で目元を抑える。


 紗綺には彼女のこころが全く理解できなかった。

 悪意なんてない。

 悪気なんて微塵もない。

 それでも自分の何気ない言動はいつも彼女を泣かせてしまう。


「お願いです、紗綺さん、もう一度考え直してくれませんか? 四方闇島の鴉羽学園は貴方が思っている以上に危険なところです。どうしてあそこへ行きたいなんて言うのですか?」

 あのとき、自分は何と答えたのだったか。

 確か——

 それが紅緋絽纐纈家の務めだとか。そんなことを言ったのではなかったか。


 母はまた大きく項垂れて涙を流す。

 紗綺はただじっと見ていることしかできない。

 夢の終わりを告げるように風鈴が一度鳴った。


 海中に落ちるように母が、部屋が、そして世界が沈み。

 紗綺は淡い夢から覚めていった。


***


 紅緋絽纐纈紗綺はゆっくりと瞼を開ける。

 訓練の合間に少し休むつもりが眠ってしまっていたらしい。訓練場の外のベンチに腰掛けたままぼんやり辺りを見た。

 訓練場での激しい気合いの声が聞こえる。

 校庭からは走り込みをする生徒たちの元気な声も響いている。

 最早慣れた島の日常だ。


「あっ、会長!」

 訓練場の扉を開けて現れた少女が、紗綺を見て声を弾けさせる。

 小柄だがしっかり鴉羽学園の軍服に身を包み、腰には鉄刀も差している。三つ編みの髪やリボンがいっそ不釣り合いだが、かえって少女の可憐さを引き立てていた。

「お疲れさまです! あっ、起こしちゃいましたか?」

「いや。起きてた」

「そうですか、よかった!」


 少女は元気に言って朗らかに笑った。

 紗綺はそんな彼女を見て眩しく思う。

 自分にはこんなふうに笑顔を弾けさせることができない。いつも仏頂面だ。

 確か彼女は自分と同年齢だった。正直そんな相手に敬語で接されるのもまだ慣れない。

 それでも《会長》という立場上、それを拒絶することも躊躇われる。

 もっと彼女たちと肩を並べられたら——


——いや。

 これは自分の使命だ。

 紗綺はそんな自分の思いを確かめるように傍らに置いてあった愛刀を引き寄せる。

 紅緋の鞘に納められたこの刀——《破暁はぎょう》は紗綺が実家にいた頃から肌身離さず帯刀している分身のような存在だった。

 これを握るたび、その刀身の光を見るたびに悩み始めた紗綺の繊弱せんじゃくなこころが打ち直される思いがする。


「ところで、その……」

 少女が少し声のトーンを落とした。

「会長にこんなこと相談していいか分かんないんですけど……」

「何だ? 何でも言ってくれ」

「えと、あの、今日東港地区の見回り担当する子がひとり来なくて。昨日あんなことがあったから怖いって言ってるみたいで……」


 あんなこととは恐らく学園近辺に禍鵺マガネが出没したことだろう。

 通行人に死傷者も出たと聞いている。

 いくら訓練を積んでいても子供なら恐怖に竦むのも無理はない。まして大勢の生徒が学園に反旗を翻すなか、いままで見回りを続けてくれた者だ。責めることはできない。

 ——同じ《子供》の紗綺が言うのも妙な話かもしれないが。


 鴉羽学園がボイコットを始めて数か月。

 いま訓練場で激しい気迫の声を上げている生徒や、目の前の彼女のように、一握りの生徒が未だに訓練や警備巡回を全うしてくれている。学園が何とか成立し続けていられるのも彼らのお蔭だ。

 そんな彼らのためにも、赤色生徒会は常に先頭に立ち模範とならねばならない。


「分かった。では私が代わりに巡回に当たろう」

 そう言って立ち上がった。

「そ、そんな! 申し訳ないですよ。あたしはただ、他に誰かいい人がいないかなって……」

「私でも構わないだろう?」

「で、でも、畏れ多いって言うか……」

 紗綺は何だか少し寂しいような、歯痒いような、妙な気持ちになる。

 どうしてか自分はいつもそういう扱いを受ける。赤色生徒会の会長に推されるより以前からだ。そういう星の下に生まれてきたと言えばそれまでかもしれない。

 贅沢な不満かもしれないが——


「気にしないでくれ。私もたまには巡回したい」

「ほんとですか?」

「ああ」

「そ、それじゃあ……お願いします!」

 少女が再び笑顔を弾けさせる。

 そうして踵を返したとき、少女は「ひっ」と悲鳴を飲み込むような声を発した。

 扉を大きな影が塞いでいる。

 まるでその体自体が大きな壁のような大男がいつの間にかそこに立ちはだかっていた。

 赤色生徒会の幹部で筋骨隆々の巨躯の持ち主、鍋島村雲だ。


 リボンの少女は慌ててそんな彼に頭を下げた。

「あ、あ、ごめんなさい鍋島先輩! あたし、ついびっくりしちゃって……」

「む、む、む」

 村雲はよく分からない声を口のなかでもごもごと反響させた。

「どうかしたか?」

 紗綺が助け舟を出す。

 村雲がこっちに目を向けた。

「や、その。先生が呼んでる。放送で。会長に来い、と」

「先生? 鬼頭教官か?」

「や、違う。新しい先生」

「新しい先生が来るのか? 鬼頭教官に代わる者ということだろうか」

「違う、それは違う、と思う。たしか一般教科みたいなことを言ってた。俺もよく知らない。済まない」


 鍋島村雲はとてつもない豪腕とその見た目に相応しい勇猛さと裏腹に、喋るのが極端に不得手だった。特に女性が相手だと格段にその舌は回らなくなる。

 もう村雲とずいぶん親しい紗綺相手でさえ必要なことを聞き出すのに一苦労するほどだ。

 若草色の刈り上げた短髪。

 教師かと見間違えるほどの巨躯に筋骨。

 そして特徴的なのはその雷雲を運んでくる雲のような眉——

 この外見の所為で非常に怖がられることの多い彼だが、実は自分からは誰も傷つけないような優しい心根の持ち主であることを紗綺はよく知っている。

 それだけに、彼に同情を覚えずにはいられなかった。

——まぁ……

 自分も口下手さ加減なら負けないが。


「何せ教師が呼んでいると言うのならば行くべきだろう。分かった。——済まない、やはり見回りは誰か別の者を探してもらって構わないか?」

 紗綺が言うと、少女はぶんぶんと首を振った。

「いえいえ! そんな全然、気にしないでください! じゃ、あたしこれで失礼しますね。鍋島先輩も、お疲れさまです!」

 そう言うと少女は鹿が飛び跳ねるように軽快に走り去った。

 その背を見送って紗綺は村雲に「行こうか」と声を掛ける。


 ふたりが並んで歩き出して間もなく。

 村雲の胸元から機械音が鳴った。無線機だ。赤色生徒会を始め、鴉羽学園での主要な連絡手段である。

 村雲が胸ポケットから無線を取り出す。

「どうした」

 無線機の向こうの相手が何か答える。

 話を聞きながら村雲の表情がみるみる曇り出した。

 どうやらただならぬ事態が起きたらしい。


「どうした?」

 無線を切った村雲に紗綺は声を掛けた。

「禍鵺だ。猫工場でそれが出た、と馬更が」

 村雲はいわおの如く険しい表情をいっそう固くして言った。

「被害は?」

「まだ。とにかく来てほしい、と」

「分かった。行くぞ、村雲!」

 紗綺は言うなり飛び出していた。村雲が続く。


 強く《破暁》を握り締め戦場に向かう紗綺は、既に先ほどの午睡の夢など綺麗に忘れている。

 ついでに教師に呼び出されたことも。


 

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