序. 新任教師
第一幕 新任教師、死ぬ ①
「おげっ、おえぇぇぇ」
腹のなかを土石流が押し寄せているようだった。
と言っても胃のなかは空っぽでいい加減胃液しか出ない。
同じフェリーの客が眉を顰めてこっちを見ているのが見なくても分かる。なかには睨む者、あからさまに距離を置こうと離れる者さえいた。
「あのおじさん、大丈夫?」
「しっ」
頑是ない少女が憐れむように言うのを、傍らの母親らしい女性が必要以上に強い力で腕を引っ張った。
康峰は恨めしそうに女の背中を睨む。
母親に手を引かれながらも少女はちらちら振り返っていた。
——碌な滑り出しじゃないな……
内心で毒づく。
そう思う間にも船は大きく跳ね、体が引っ繰り返りそうになる。
まだ昼下がりというのに空は墨を零したような曇天だ。聞いた話だと今日は一際海が荒れているという。つくづくこの島に歓迎されていないらしい——そう思わずにいられない。
いまからでも帰れるものなら帰りたかった。だが既に視界に懐かしき本土はなく、代わりにどこか恐ろしげな四方闇島のシルエットが迫っている。
——あそこにこれから俺が就任する鴉羽学園があるのか……
鴉羽学園が学園とは名ばかりで化物と戦う前線基地であることは周知の事実だ。ニュースや新聞でも頻繁にその名を目にする。康峰にも一通りの知識はあった。だがまさか自分がそこで教鞭を揮う日が来るとは思わなかった。
康峰は吐き気を紛らわすためにも数か月前の出来事を思い出した。
「鴉羽学園の教師になってみませんか?」
受話器の向こうから聞こえる場違いなまでに明るい女の声に康峰は淡々と返した。
「番号間違えてると思いますよ。じゃお元気で」
すかさず受話器を切る。
くそったれ。鬱陶しい雨が続いている。室内が暗いのは電灯を買い替える金もないせいだけじゃく、部屋じゅうにぶら下がった洗濯物のせいだ。
日当たりの悪い賃貸の一室は春先というのに霊安室のようにうすら寒い。
渋々起きて仕事探しを始めた矢先に掛かってきた電話は間違い電話だ。朝から苛立ちはピークに達しようとしていた。
少しするとまた電話が鳴った。
しばらく無視したが鳴り止まない。
仕方なく受話器を取った。
「お待ちください。間違いじゃないです。軛殯康峰様ですよね?」
「もう一度電話帳をよく見てくれ。この辺りじゃよく聞く名前だ」
「有史以来誰も聞いたことありませんよ」
「大体教師なんて俺ができるわけないだろう? そんな経験もなければ教員免許もない」
「ご心配なく。事前にちゃんと研修期間を設けますし、ご存知の通り鴉羽学園は特殊な環境。お客様程度の知能でも全く問題ありません」
「挑発したいのか勧誘したいのかはっきりしてくれ」
「はっきり言ってお客様は非常にラッキーですよ。無資格無免許でこれだけ高収入の仕事はそうそうありません。断るだなんて勿体ない」
「よく言うよ」
——死ぬ危険があるからだろ。
四方闇島がどんなところか知らない人はいない。そこは霧のなかから神出鬼没正体不明の化物が現れる島だ。
誰も好き好んで行く人間なんていない。
教師がいないのも当然だ。
俺だって命が惜しい——
というごく在り来たりな科白を、すんでのところで康峰は飲み込んだ。
受話器を固く握りしめたまま洗面台の鏡に映った男の顔を睨む。
生気のない青白い顔。
絶望的に辛気臭い瞳。
そして真っ白なぼさぼさの髪。しばらく切ってないから肩近くまで伸びている。そのせいで老人と間違われることも多いがこれでも三十路だ。
それは名前の通り髪が白くなるのが代表的な症状だ。
だがこの変化は内面が老化・機能低下することの表面的な発現に過ぎない。
全身の筋力の低下、あらゆる病気への免疫力低下その他の老化に伴う症状を齎すこの病魔は肉体的精神的に患者を蝕む。有体に言えば白化病は人間を緩やかに殺しに来る死の病に他ならない。そしてこの病が流行して以来十数年、特効薬も生まれていない。
そして。
現在国民の三割程度がこの病気に罹患している——この現実の絶望は想像に難くないだろう。
化物退治を子供に押し付けなければいけないのもそれが一因だ。
この国はもうガタガタだった。
ともかく。
康峰もまた長年この白化病に晒されている。
そんな人間に務まる仕事は少ない。清掃業のバイトでさえまともに務まらないのだ。
名前も知らない通話相手の突然の仕事の斡旋——
どう考えても胡散臭いのに断れないのは、こんな惨状に身を伏していたからだ。
「如何でしょうか、お客様?」
こっちの胸中を見透かしたように女が言う。
康峰は唇を噛み締めてしばらく黙り込む。
やがて、声を絞り出すようにして訊いた。
「……収入は?」
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