アポカリスト ―終焉の学園―

志島余生

終わりの始まり

終わりの始まり

 


 夕日の差す町角で、正体不明の化物に襲われ絶体絶命のピンチに陥る——

 主人公が冒頭に経験する展開としてはアリかもしれない。鉄板と言うか、ちょっとありきたりなくらいだ。

 だが沙垣さがき先達せんだつがいま遭遇しているのはまさにそう言う状況だった。

 背後から迫りくる殺気。

 地面を踏み鳴らす足音。

——どうしてこんなことに……



 数分前。

 今日もこの島は濃い霧に覆われている。

 四方を埋め尽くすような不気味な濃霧。


 そんな霧の向こう——

 どこか遠くから、どこまでも透き通った鳴き声が聴こえてくる。


 どこか悲しげで。

 どこまでもこころが冷えるような。

 あの世から手招きされているような——


 ここ四方闇島よもやみじまに棲む野鳥、トラツグミの声だ。

 先達はあの声を聞くと言い知れない不安に駆られる。

 何かとても大事なものをどこかに置き忘れてきたような。

 もしくは恐ろしい何かがすぐ背後まで迫っているような。

 言い知れない感傷に脳の奥が痺れる。


 だが——

 そんな鳥の声がぴたりと止む。

 代わりに悲痛な男の叫びが静寂を引き裂いた。


「たっ、助けてくれぇ!」


 先達は振り返った。

 夕日の下、薄暗い路地の向こうから汚れた恰好の男が走ってきている。必死の形相でこっちを見ていた。

 そしてその背後から迫る巨大な影。

 化物、怪物、モンスター……

 人が対象にそういう表現を使うとき、その必要条件が何かは分からないが、そいつは一瞬でその類と認識するのに十分だった。

 人間より一回りも大きな輪郭。

 這い回る十数本の脚。

 鋭い鉤爪。

 背中には鴉の羽根のようなものも生えている。

 敢えて言うならサソリに近いが、いろんな動物や昆虫をむちゃくちゃに混ぜ合わせた冗談のような姿。

 そしてその顔面には真っ白な仮面。それは死者の顔に伏せる布——いわゆる打ち覆いにも似ていた。

——《マガネ》だ。


「繧Дke☆7——」


 化物の口から不気味な唸り声が迸る。同時に鉤爪を振り上げた。

「嫌だ、こんな死に方——」

 男の声を遮るように鉤爪がその背中を襲った。

 男は激しく転倒し、地面に顔から落ちてそのままぴくりとも動かなくなった。一瞬の出来事だ。

 仮面の異形がこちらを向く。

 先達は咄嗟に臨戦態勢を取る——

 わけもなく、一目散にその場を逃げ出した。



 そして現在。

 全力疾走を続ける先達の額に脂汗が浮かんだ。

 疲労以上に、経験のしたことのない恐怖が、焦燥が、全身の毛穴から湯気を立てて沸き立っているようだった。

 《禍鵺マガネ》はこの島に現れる化物だ。正体も何も分からない。ただ霧のなかから神出鬼没で現れ人間を襲う。

 もう一言説明を加えるなら、その名前の由来はまがつの鵺——《禍鵺マガヌエ》に由来するらしいってことくらいだ。


 走り続けていた先達の脚がぴたりと止まった。

 袋小路——行き止まりだ。

 必死に四方に目を走らせたが、逃げ道はない。

——戦うしかないのか?

 武器はない。

 地面に転がっている材木を見つけて咄嗟に拾い上げたが、水気を吸っていかにも頼りない。こいつは世にある材木のなかでも最弱の部類に違いない。

 それでも。

——死にたくなければ戦うしかない。


 大丈夫。

 僕も鴉羽からすば学園の戦士だ。

 勇気を出せ。

 自信を持て。

 勇気と自信の違いは知らないが、両方持ってた方がいいに決まってる。


 おもむろに禍鵺が体ごと突っ込んできた。

 鋭利な鉤爪を持つ脚を振り上げる。

 先達は材木を振りあげた。


「とわぁぁーっ!」


 気合いとも悲鳴ともつかない裂帛のあと——

 気付くと体が宙を舞っていた。

 一瞬何が起きたか分からなかった。が、状況を見るに突進と同時に体を投げ飛ばされたのだろう。

 先達の体は宙を一回転し、道端の廃材の上に放り出された。

 背骨に激痛が走る。

 呼吸が凍り付いた。


——やっぱりダメか!

 そりゃそうだ。ただでさえ自分はからっきし戦闘に向いてない。材木と同時になけなしの勇気と自信もへし折れた。

 化物がこっちに体を向けて踏み出す。

——終わりだ。

 享年十五歳。

 ああ、死ぬ前にあの子と手くらい繋ぎたかったな。

 そう諦めかけたとき——

 何者かが地面を蹴る音が、確かに聞こえた。

 霧の奥で黒い影が禍鵺に向かって跳躍する。


「Яユw9繝%——!」


 禍鵺の口から絶叫が轟き、身を捩る。

 化物に一太刀を浴びせた何者かは軽やかに後ろへ跳ぶ。禍鵺の反撃を紙一重で躱したあと、再び高く高く跳ぶ。

 その体が赤い炎を纏った。

 身体の内側から炎がうねり、その腕を、次いでその手の金属バットを覆った。

 先達の喉がごくりと鳴る。

——《冥浄力めいじょうりき》。


 それは禍鵺を倒すために鴉羽学園の優等生にのみ与えられた特殊な力だ。使いこなすには血の滲むような訓練と才覚を要する。

 その力が発動されたとき、ああして肉体から赤い炎が躍ったように見える。


 謎の人物は禍鵺の顔面に一撃を降り下ろした。

 真っ白な仮面に縦横無尽に罅が走った。

 そのまま禍鵺の巨体は地面に倒れる。

 動かなくなった禍鵺の体から、炎が立ち上がった。冥府に還る禍鵺の放つ炎——《鵺火ぬえび》だ。


「……えっ?」

 もしかして僕——助かったのか?

 感激や喜びより、拍子抜けしたような、呆気ない感覚。

 改めて霧の向こうの自分を救ってくれた人物を見ようとする。

 そいつは禍鵺が鵺火に呑まれるのを見届けたあと、こっちを向いた。

「…………」

 目を凝らすが、やはりその顔は見えない。

 だが——


「おい、誰かいるぞ!」

「大丈夫か⁉ ……ってアレ、もう死んでない?」


 騒がしい声が背後から聞こえた。ばたばたと地面を踏み鳴らす靴音も。

 やっと我らが鴉羽学園の生徒たちが集まってきたらしい。

 それを合図に、謎の人物がこちらに背を向ける。

 軽やかに跳び、霧の向こうに消えた。


***


——なんでこんなことに……

 それから数十分後。

 先達は再びぼやいていた。

 ここは遺体安置所。日は暮れてすっかり外は暗い。尤も窓がないこの廊下ではそんなこと関係ない。

 おまけに電灯が壊れているとかで懐中電灯の頼りない明かりだけが頼りだった。もし電池が切れたらと思うと——いや思いたくもない。


『おいおい、何だよその顔は。俺たちが駆け付けなかったらヤバかったんだぜ。可哀相なホトケさんくらい運んでやれよ。な?』


 禍鵺が倒れたあと駆け付けた生徒たちからはそう言って肩を叩かれた。そしてさっき即死した男の亡骸を運ぶ役を押し付けられた。

——助けてくれたのは謎の人物なんだけどな……

 とはいえ、先達が何もできなかったのは事実だ。駆け付けた彼らは曲がりなりにも《冥浄力》持ち。劣等生の先達に言い返す資格はない。


 ——と言うわけで。

 こうして可哀相な死体を運びに来たわけだが。

 ちらりと袋に入った遺体に目を遣る。

 考えてみれば可哀相な人だ。どこの誰かも分からない。身分証のようなものもなかった。このまま身内が名乗り出なければ、無縁仏として葬られるのだろう。


「はぁっ……」

 先達は溜息を吐く。

 男に同情するようなことを言ったが、先達だってたいして変わりない。

 ここ鴉羽学園は禍鵺に対抗する防波堤。学園とは名ばかりの戦場に他ならない。

 そんな死地にむざむざ我が子を差し出す親などいない。だからここにいるのは《ワケあり》揃いだった。

 親を知らない孤児。

 親に棄てられた子供。

 犯罪を犯し行き場をなくした前科者——

 四方は海に囲まれ、逃げ場はない。だが仮に島を出たとしても行き場なんてない。

 ここはまさに四方をどこまでも続く闇に囲まれた流刑地だ。


——僕だっていつこうなるか分からないんよな……

 死体を見ていると気が滅入ってきた。

 さっさと安置室に置いて帰ろう。

 そう思ったとき——

 ごそっ。

 死体袋が動いた。

「……ん?」

 いや。気のせいか。

 ああ、単に体がずれただけか?

 生徒だって馬鹿じゃない。先達に遺体を渡す前に心臓が停止していることは確認していた。先達だってそれを見ていたんだ。

 動くわけが——


「ごほっ、げほぉっ!」


「わあぁあぁぁっ⁉」

 袋のなかが激しく咳込んだ瞬間、先達は絶叫とともにギネス級に腰を抜かした。思い切り固い床に尻を打つ。


「お、おい! ここから出せ! 俺はまだ死んでねぇぞ!」


 がらがらした苦しげな声が袋から響いた。

 どうやら必死で出ようともがいているらしい。

 先達は動揺と恐怖からしばらく声が出なかった。死体は——いや、さっきまで死体と断じて疑わなかった男は、まだ何か喚いたり咳込んだりしている。


「し、死んでないんですか?」

 しばらくして間の抜けた質問をしてしまった。

「その質問に意味があると思うか?」

 案の定男は呆れたように応える。

「でも心臓が止まって……」

「さっきまではな」

「はい?」

「俺は強いショックやダメージを受けると一時的に心臓が止まる体質だ。だがしばらく経てばまた動く。いま喋ってるのがその証拠だ」


 そんな馬鹿げた体質は聞いたことがない。

 だが死体袋は確かに喋っている。

 ともかく袋を開けて男を解放してやることにした。


 ようやく袋から出た男は立ち上がり、忌々しげに服を整えた。

「畜生。せっかく用意した一着だけのスーツがお釈迦だ。幸先のいいことだよ、全く」

 そうぼやいて頭を掻き毟る。

 先達は改めて男を観察した。

 服だけでなく髪も泥で汚れている。そのせいでさっきは気付かなかったが白髪だ。だが年齢は意外と若かった。精々三十くらいか。

 頬のこけた青白い顔。

 この世の全てを恨むかのような暗い瞳。

 背は曲がり、腕は枯れ枝のように細い。

——なんだこいつは……?


「あの、貴方は……?」

「ああ、俺はな、教師をしにやってきたんだ」

「教師?」

「鴉羽学園の新しい教師の……うぅっ、げほっ、ごほぉ!」

「大丈夫ですか?」

「い、いきなり立ったから立ち眩みが。あと吐き気が……げろぉっ」

 それ以上喋ることもできず、男は跪いた。

 血を吐きそうな勢いで噎せ続ける。

 これが、いやこんな人が……

——僕たちの学園の教師?

 先達は呆然と男を見続けた。

 男の噎せる声だけがしばらく闇にこだました。



 またあの鳥が鳴いている。

 トラツグミが鳴いている。

 どこまでも冷たく、恐ろしげなあの声で。


 恐ろしい何かが近づいているのを報せるように——


 

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