4章(6)
あの一件以来、メルフェリーゼはカイリエンの顔を見るだけで瀕死のアウストルを思い出し、否応なしに自分の犯した罪をまざまざと突きつけられるようになった。
決して、アウストルのことを忘れたわけでない。カイリエンとツリシャに住むようになってからも、罪悪感はじわじわとメルフェリーゼの身を蝕み続けている。けれど、それは日に日に薄れてきていた。少なくとも、日常生活を送るうえで支障になるほどの悪夢を見ることはなくなっていた。
心の奥底にしまい込み、カイリエンには見せないようにしていたものが一気に噴出したかのように、メルフェリーゼは夜毎、悪夢に苛まれ、日中でも誰もいない部屋にアウストルの影を見て悲鳴を上げる。
常にあの濁った翡翠色の目が絶えずメルフェリーゼを監視しているかのように感じ、食事も睡眠もろくに取れなくなっていた。
カイリエンが心配してくれていることは分かっている。彼に迷惑をかけていることも分かっている。しかし、どうしようもないのだ。自分のやったことは取り消せない。その罪から逃れることは一生できない。
覚悟はしていたはずだった。自分がアウストルに手を下すということは、彼を殺した事実とともに生き続けるということだ。カイリエンに背負わせたくなくて、自分でやったというのに。
メルフェリーゼは昼も夜も分からない浅い眠りから目を覚まし、唇を湿らす程度に少しだけ水を飲んだ。
カイリエンはすでに出かけているようで、部屋にはメルフェリーゼ一人しかいない。テーブルには彼が用意していったと思しき丸いパンと、切り分けられたフルーツが盛られていた。
メルフェリーゼはあの夜以降、カイリエンとの接触を極端に避けている。カイリエンは時間しか解決できるものはない、と言ってメルフェリーゼをそっとしておいてくれる。その心遣いがありがたいとともに、彼への申し訳なさも募っていく。
カイリエンはメルフェリーゼと出会わないほうが幸せだったのではないか。メルフェリーゼが、彼の幸せを奪っているのではないか。そんなことを考えはじめると、メルフェリーゼは虚しさと罪悪感で押しつぶされそうだった。
コンコン、と扉をノックする音が響く。たしか今日は、カイリエンが麦の配達を頼んでいたはずだ。
慌てて手櫛で髪を整え、夜着に上着を巻きつけて扉を開ける。
「すみません、重かったでしょう? 袋は、そこの戸の前に置いて――」
「ずいぶん、やつれたようだが」
ひんやりとした、情の感じられない声。
メルフェリーゼはおそるおそる顔を上げる。翡翠色の目が、こちらを見ている。
「アウストル様……?」
メルフェリーゼはくつくつと笑いがこみ上げてくるのを感じた。人は、罪に追われると幻覚を見るらしい。ついに自分の心はここまで壊れてしまったのだ。そこにいるはずのない人間を見て、聞こえるはずのない声を聞いている。
麦の配達人がアウストルに見えるなんて、自分はどうかしているのだ。もしかしたらメルフェリーゼはまだ夢の中にいて、夢遊病者のように意図せずに身体を動かしているのかもしれない。
すっと伸びてきた手が、メルフェリーゼの青白い頬を包む。視線が交わり、メルフェリーゼは現実を直視する。頬に当てられた手のぬくもりを感じる。そこにいるはずのない、アウストルの整った顔立ちを見る。
「お前を迎えに来た」
ほとんど抑揚のない静かな声。怒っているのか、呆れているのか、なにも感じ取ることはできない。淡々と、事実だけを告げる声。
じわじわと理解しはじめる。これは現実だ。夢じゃない。アウストルは、死んでいなかった――。
メルフェリーゼが悲鳴を上げるより早く、アウストルの手のひらが彼女の口を塞ぐ。その時はじめて、彼の目に感情が見えた気がした。
「他の男のものになることを、俺が許すと思ったか?」
◇ ◇ ◇
家の扉が開け放たれているのを遠くから見た瞬間、悪い予感はしていた。家へと続く坂道を一気に駆け上がり、護身用の短剣を抜いて部屋に飛び込む。
部屋はもぬけの殻だった。カイリエンが朝用意した時のまま、テーブルの上にはパンやフルーツが乗っている。手をつけられた形跡はない。ベッドのシーツは乱れ、そこにメルフェリーゼが寝ていたことを示すように皺が寄っていた。
抜け殻を見ているようだった。メルフェリーゼはたしかにここにいた。でも、今はもういない。とっくに、カイリエンの手の届かぬところへ行ってしまったようだ。
いつかこうなることは、薄々予感していた。アウストルが死んでいないことに、カイリエンは気づいていたのだから。
「あー、一足遅かったか」
呑気な声が聞こえて、はっと振り返る。カイリエンと同じほどの背丈の、がっしりとした体躯の男と、その隣のちんまりとした細っこい少年。少年が敵意はないというように両手を上げ、カイリエンにも短剣を下ろすように求める。
カイリエンは大男から目を逸らさずに、短剣を腰に戻した。あの男、図体はでかいが、戦い慣れている感じはしない。一対一ならカイリエンのほうが上手なはずだ。
「お前たちは誰だ?」
二人を睨みつけたまま、カイリエンは問う。しかし少年はカイリエンの質問には取り合わず、勝手に話を進める。
「お前には期待してたのによ、あっさりメルを手放しやがって」
なぜここにメルフェリーゼが住んでいたことを知っている? しかもその口ぶりは、カイリエンのことも知っていたと見える。メルフェリーゼは公的には湖に身を投げて亡くなったことになっている。ここにメルフェリーゼとカイリエンが住んでいることは、一部の人間しか知らないはずだ。
「まさかお前たち、マーリンド派の人間か?」
「いや、違うね。俺たちはどこにも属さない。ところでメルがどこに行ったか知らない?」
こっちが聞きたい、と思いながらもカイリエンは大人しく答える。
「アウストル王子が連れ戻しに来たんだろ」
「そんなことは分かってるよ。行き先に心当たりがないか聞いてんの」
「知ってたら俺がここで突っ立ってると思うか?」
カイリエンの言葉に、少年は一瞬、息を飲んだようだった。
メルフェリーゼを心から愛していた。彼女のためなら、どんなことだってやれる。左目を失ったことなど、惜しくない。彼女に会えたのだから。あの日、あの場所で狼に噛まれていなければ、カイリエンはメルフェリーゼと出会うことはなかった。
目の前の少年と大男も、なにかの因果でメルフェリーゼと繋がっているのだろうか。
少年が血色の悪い唇を歪めて、笑みを見せる。
「なにかあったら教えてよ。俺たちはすぐ近くの山の麓に住んでるから」
「お前たちは何者なんだ? なんで、メルのことを――」
「俺たちは――」
少年が扉に手をかけ、踵を返す。やけに頼りない背中を守るように、大男が続いた。少年の声が、メルフェリーゼのいなくなった部屋に反響する。
「メルフェリーゼに命を救われた、貧民窟の双子さ」
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