2章(4)

「ハナ、もう下がってよいぞ」


 マーリンドの尊大な声で、ハナは一礼し、音も立てずにするりと部屋を出ていく。部屋の中にはマーリンドとカイリエンだけが残され、奇妙な沈黙が漂う。

 カイリエンは内心、マーリンドがなにを言い出すのか気が気ではなかった。メルフェリーゼの一声で、マーリンドの妻であるロワディナと肌を重ねることはなかったものの、第一王子の夫人に手を触れたことはたしかである。


 まさか、そのことを責めにわざわざ離れにある部屋までやってきたというのか?


 カイリエンの睨むような目つきにも、マーリンドは一切ひるまない。


「まあ、そう睨むな。まだなんの話かも分からぬくせに」


 マーリンドはハナが用意した椅子の上にふんぞり返り、カイリエンを観察する。カイリエンもまた、マーリンドを眺め回し、情報を得ようとする。


 メルフェリーゼによく似たブロンドの髪を持つマーリンドは、噂に聞くよりも老いて見えた。弟で第二王子であるアウストルとはそう歳も離れていないはずだが、実際に顔を合わせるとアウストルとマーリンドは兄弟よりも親子に近いような気さえしてくる。

 一方、夫人であるロワディナはまだ若かったはずだ。二十五歳のカイリエンよりも、少し年上といったところか。マーリンドとロワディナは、十以上、歳が離れていてもおかしくない。

 マーリンドの老け方を見ると、ロワディナの気持ちも少しは分かるというものだ。夫の種は役立たずだと言ってのけたロワディナに、カイリエンは少しだけ同情した。


「それで、王子様がわざわざ俺になんの用です?」


 カイリエンの隠そうとしない敵意を感じ取ったのだろう、マーリンドが気色悪いものでも見るように顔をしかめる。


「春には、ツリシャに帰ると聞いたが」

「はい」

「メルフェリーゼを、一緒に連れて行きたくはないかね?」

「……なんだと?」


 急に飛び出したメルフェリーゼの名に、カイリエンはまじまじとマーリンドの顔を見た。マーリンドは意地汚い笑みを浮かべていて、その表情に隠された感情をさっぱり読み取ることができない。ある意味、ポーカーフェイスだ。いつ空くかも分からない国王の席を待ちわびて、長く王子をやっているだけのことはある。


「彼女を愛のない結婚から救うのは、お前かもしれぬし、私かもしれない」


 マーリンドはカイリエンの返事も聞かずに続ける。


「私に協力してくれたら、ツリシャの郊外に土地を用意しよう。二人で一生遊んで暮らせるだけの金も用意する。お前が望むなら、ツリシャ王国軍とかけ合って教育係の任を解くこともできる。そうすれば、お前は人里離れた家で、死ぬまでメルフェリーゼとともに過ごせるのだ」


 マーリンドがなにを考えているのか、さっぱり分からない。その意図は、目的は。うまい話には必ず裏があることを、カイリエンは嫌というほど知っている。


「俺に、なにをさせようとしているんです」


 わずかに声が震えたのは緊張か、それとも興奮か。自分の手でメルフェリーゼを救い出せるチャンスが、こんなに早く訪れるとは思わなかった。

 カイリエンの焦りとは裏腹に、マーリンドはゆったりと足を組み替え、もったいぶったように窓の外へ目をやる。

 ふと、マーリンドがカイリエンに視線を戻した。ぞっとするような笑みを顔に貼りつけ、マーリンドは囁いた。


「アウストルを殺せ」


 半ば、予想はできていた。メルフェリーゼを解放するには、彼女の夫であるアウストルをどうにか退けなければならない。王族が駆け落ちごときで離縁をしないことも、知っている。ならば、方法はひとつしかない。


「実の弟だろ」

「弟ではあるが、私の王位継承を邪魔する厄介者であることもたしかだ」

「まさか。第二王子に殺されるような恨みでも買ってるのか?」


 マーリンドはカイリエンを馬鹿にするように鼻を鳴らした。


「可能性の芽は、すべて摘んでおかねば気が済まない質でね」

「俺が、このことを第二王子に密告するかもしれないとは考えなかったんですか?」


 カイリエンとしては、これ以上ないくらいマーリンドを脅したつもりだった。いくらメルフェリーゼとの未来が手に入るとしても、ユルハ王国の王子を暗殺するとなるとリスクが大きすぎる。

 アウストルにマーリンドの計画をすべて話し、引き換えにせめてユルハにいる間だけは彼女と会わせて欲しいと頼むことだってできたはずだ。

 しかし、マーリンドはまったく動揺していなかった。それどころか、ますます笑みを深くしている。


「お前は必ず、この話を受けることになる」

「なぜ言い切れる」

「お前が受けないのなら、メルフェリーゼは私のものになるからだ」


 マーリンドの笑みが下卑たものに変わるのを、カイリエンは絶望の眼差しで見つめた。


 メルフェリーゼが、こんな薄汚い男のものになる? それを俺は、黙って見ているというのか?


「ディナは私を種なしだのなんだの言うがね、そもそも私は気性の荒い女が好きではない。その点、メルフェリーゼは文句なしだ。貧民の出だが、顔は良いし大人しい。それに、あれはまだ男を受け入れたこともないだろう? アウストルに愛されなかった自分を嘆きながら、他の男に――」


 カイリエンの拳がマーリンドの頬を掠め、椅子の背に深々と突き刺さった。割れた木々がカイリエンの拳に突き刺さり、マーリンドの肩を血で濡らす。


「それ以上、喋るな」


 カイリエンの放つ殺気に、さずかのマーリンドも笑みを引っ込めて息を飲む。しかし、あくまでも自分が優位だということを主張するのは忘れない。


「ツリシャでは名の知れた悪党だったそうじゃないか」


 カイリエンが舌打ちをして、手を引く。この男は知っている。カイリエンが元々は孤児を集めた窃盗団にいたことも、その後いかにしてツリシャ王国軍に入り、近衛兵まで上り詰めたのかも。

 マーリンドがゆっくりと立ち上がり、カイリエンの肩を叩く。


「その目のせいで以前の仕事ができぬというのなら、毒師を呼んでやろう。お前には、期待しているからな」


 マーリンドの退室を悟ったハナが扉を開け、拳から血を垂れ流しているカイリエンを見てぎょっとする。

 その場を動けないカイリエンに背を向け、マーリンドは悠々と部屋を後にした。

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