2章(3)

「無理を言っていることは分かってる……でも、もう耐えられそうにないんだ」


 カイリエンが切なげにぎゅっと眉根を寄せる。

 息もできないほどきつく抱きしめられて、メルフェリーゼの瞳から自然と涙がこぼれる。


「叶うなら、あなたを攫ってしまいたい。俺のものにして、ずっと二人で生きていきたい」


 メルフェリーゼも、カイリエンも、そんなことは叶わないと分かっている。ただの理想だと分かっていながら、その理想を口にして、現実から目を逸らしている。

 そうでもしなければ、メルフェリーゼはユルハ城という水槽で、息をできずに溺れてしまうだけだから。カイリエンという酸素を得て、メルフェリーゼはゆるやかに生かされている。

 ただし、この水槽からは一生出ることができない。そして、酸素もいつかは尽きる。あとはただ、溺れて窒息死するのを待つだけ。


 メルフェリーゼは涙を拭うと、カイリエンの胸を押し、身体を離した。

 やはり自分は、この先には行けない。アウストルを裏切ることはできない。たとえそれが愛のない結婚だったとしても、仮にも自分は、ユルハ王国第二王子の妻なのだから。

 蜂蜜色の瞳に、メルフェリーゼの血の気のない顔が映る。


「ごめんなさい、やっぱり私……」

「いいんだ、分かってる」


 未練の残る息を吐きながらも、カイリエンはすっと自分の気持ちを切り替えたように微笑む。


「でも、これだけは覚えていて欲しい」


 カイリエンがメルフェリーゼの頭を撫でる。


「ユルハの人間がなんと言おうと、俺だけはずっとメルの味方だ。あなたが望むのなら……俺は王子を殺し、国を滅ぼすことだっていとわない」


 その目はどこまでも真摯で、メルフェリーゼはこみ上げる苦しみに身を浸してうつむいた。




◇ ◇ ◇




 あの夜会の夜以降、メルフェリーゼは表立ってカイリエンの部屋を訪ねることができなくなっていた。

 なにかを察したのかは分からないが、アウストルがカイリエンの部屋を移してしまったのだ。カイリエンは今、ユルハ城の敷地内に建つ離れの部屋で療養している。元々は、侍女の宿舎として使われていたものだが、その宿舎で逢瀬や密会が頻発して城内の風紀が乱れる原因となったため、今は使われていない。

 宿舎へ行くには一度、城門を出て裏門へ回るか、中庭を横切っていかねばならないため、外出する用のないメルフェリーゼにとって、カイリエンの元を訪ねるのは至難の業であった。


 城にいるはずのアウストルとすれ違いはするものの、声をかけられることはない。ロワディナはアウストルの帰還後、目立った行動はないが、かといってメルフェリーゼに優しいわけでもない。

 孤独がひたひたとメルフェリーゼに忍び寄り、その身を蝕んでいく。


 一人でいることには慣れたつもりだった。嫌味を言われるのも、アウストルに見つからない程度の嫌がらせをされることにも、慣れたはずだった。

 しかし、実際はどうだろう。カイリエンに会えないだけでメルフェリーゼは息苦しさで夜も眠れなくなる。蜂蜜色の目が、やわらかな指先が、石鹸の香りがする肌が、恋しくてたまらない。

 あのぬくもりを、メルフェリーゼは強烈に欲している。

 一度知ってしまった蜜の味を、メルフェリーゼは忘れることができずにいる。


「――様……メルフェリーゼ様!」


 誰かが自分を呼ぶ声がして、メルフェリーゼは我に返った。

 顔を上げると、目の前に心配そうな表情でメルフェリーゼのことを見つめるハナの顔がある。

 メルフェリーゼは無理やり口角を引き上げて、大丈夫だというように微笑んだ。


「ごめんなさい、ちょっとぼーっとしていて」

「大丈夫ですか? あまり顔色も優れないようですし……」

「なんでもないの、本当に。大丈夫よ」


 ハナの入れてくれた紅茶に口をつける。湯気とともにふんわりと広がる花の香りが、メルフェリーゼの心を優しく解きほぐしてゆく。

 ハナはいまだ心配そうにメルフェリーゼの顔を見つめていたが、椅子を勧めると、ちょこんと腰を下ろした。

 こう見ると、ハナはとても幼いように見える。本来であれば、学校に通っていてもおかしくはない年齢なのではないか。

 メルフェリーゼは俄然ハナに興味がわき、焼き菓子を勧めながら尋ねた。


「まだ幼いようだけれど、ハナはいくつなの?」

「わたしですか?」


 ハナは口の端に赤いジャムをつけながら、指先を唇に当て、考え込む様子を見せる。


「侍従長の奥様は、おそらく今年で十になっただろうと仰っていました」

「本当の年齢が分からないの?」

「はい。わたしがまだ赤子だった頃に、城門のところへ捨てられていたのを侍従長の奥様が拾ってくれたみたいなんです」


 メルフェリーゼは思わぬ告白に、言葉を失った。

 ハナは誰にでも明るく、愛嬌がある。城に仕える男女が結婚して子どもを産み育てることも珍しくないため、ハナもきっと城生まれの女の子だと思っていたのだ。


「ご、ごめんなさい……答えにくいことを聞いてしまって」


 謝るメルフェリーゼを見て、ハナは慌てたようにぶんぶんと手を振る。


「お気になさらないでください! わたしなんかのことより、よっぽどメルフェリーゼ様のことが心配です!」

「私のこと?」

「そうですよ!」


 ハナが憤慨したように、眉を吊り上げる。


「メルフェリーゼ様は、もっとご自分のことを大切になさるべきです! メルフェリーゼ様が仰らないのなら、わたしがアウストル様に直接言います! もっと奥様を敬うべきだと!」

「お、落ち着いて、ハナ……」

「家族と離れ離れになって、お城で頑張ってるメルフェリーゼ様を大事にしないなんて、ありえないですよ!」


 ハナはひとしきり怒鳴って落ち着いたのか、紅茶のカップに手を伸ばして一息で飲み干した。

 すさまじい熱量である。これほどまでに、自分の身を案じてくれる人間がいることに、メルフェリーゼはひそかに驚いた。

 とはいえ、メルフェリーゼから見ればハナはまだほんの子どもだ。王位継承のことも、世継ぎのことも、冷めた夫婦生活のことも、彼女に話すわけにはいかない。子どもは子どもらしく、余計な心配などせずにすくすくと育つべきなのだ。


「ありがとう、ハナ。私の心配をしてくれて」


 メルフェリーゼに頭を撫でられたハナは、にっこりと笑みを浮かべるとエプロンのポケットから懐中時計を取り出した。時刻を確認したハナの顔色が、さっと変わる。


「すみません、メルフェリーゼ様! ここは後で片付けますのでそのままで!」


 ハナが慌てた様子で、席を立ち、懐中時計をしまい込む。

 メルフェリーゼはバタバタと去っていくハナの背中に声をかけた。


「なにか急ぎの用でもあるの?」


 ハナも後ろを振り返りつつ、足を止めずにメルフェリーゼに向かって叫ぶ。


「マーリンド様に、カイリエン様のところへ案内して欲しいと仰せつかっていたことを忘れていました!」

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