家庭1
教室でハムスターを飼い始めるということが、小学生にとっては重大ニュースであることは間違いない。放課後になると、陽太はその事実をいち早く母に教えてあげようと、急いで自宅に帰った。
「ただいま!」
「おかえり。冷蔵庫におやつのケーキがあるから、しっかり手を洗ってから食べなさいね」
母は陽太のほうに顔を向けることなくそう言った。リビングのソファーで、四歳になる陽太の妹の
それでも陽太は重大ニュースを伝えるべく、嬉々とした表情でふたりの元に近づくと、母へと話しかけた。
「お母さん、聞いて聞いて。今日、学校でビックリすることがあったんだよ。なんと、今日からぼくのクラスでハムスターを飼うことになったんだ。しかも二匹も。名前はね、ハム夫とスタ吉っていうの。ハムスターだから。それでね、二匹ともめっちゃ小さくて、めっちゃ可愛いんだ」
母は、最初のほうこそ、学校での出来事を一生懸命に伝えようとする息子の言葉を微笑みながら聞いていた。だが、すぐに不満げに顔をしかめると、面倒くさそうにチッと舌打ちを返した。
「ハムちゃん!」
母とは対照的に瞳を輝かせたのは美月である。読んでいる途中の絵本を閉じると、陽太に詰め寄って駄々をこね始めた。
「お兄ちゃん、いいなぁ。ミーちゃんも、ハムちゃんと遊びたい。ミーちゃんも、ハムちゃんに会いたい。ミーちゃんもー」
「陽太。あなた、お兄ちゃんなんだから美月の気持ちくらい少しは考えなさい」
母は陽太に対して呆れた様子でため息をつく。しかし、美月に顔を向けるとその表情は一変し、いつもの母の顔へと戻るとご機嫌を取るかのように優しく話しかけていた。
「ミーちゃん、ハムちゃんていうのはね、バッチイの。わかる? 可愛いかもしれないけど、触ったりしたらミーちゃんの体にもよくないのよ」
触っただけで体によくないというのはさすがに大げさではあるが、あながち嘘というわけでもなかった。というのも、美月は生まれながらにして喘息持ちだったのだ。
そのため母は、いかなるときも家の中の清潔さを保とうとしていた。部屋の隅にもホコリのひとつもないように毎日掃除をしているし、家中に置かれている空気清浄機は四六時中稼働している。ペットを飼うことを禁止されているのも、もちろんこのことが理由だ。
美月の体調を慮ってのことなのは理解している。とはいえ、幼い陽太の目から見ても、母の言動は過保護に映っていた。
ただ、母が過度に美月の心配をしてしまう本当の理由も陽太にはわかっていた。母は、美月に対して罪の意識を感じているのだ。
早産だったこともあり、美月は生まれた際に体重が1300グラムしかなかった。いわゆる低出生体重児だったのだが、美月は出生直後に産声をあげることができず、数日間も生死の狭間をさまよった。
その間に母は「わたしが丈夫に生んであげられなかったせいだ」と嘆き悲しみ続けていた。無事に容体が安定し、これからは健やかな成長を見せてくれるだろうと期待していたところで美月が気管支喘息を患っていることがわかったのだ。低出生体重児だったことも、喘息持ちだったことも、誰の責任でもないはずなのだが、母はどちらも自分のせいだと負い目を感じているのだろう。
間近で嘆き悲しむ姿を見ていたからこそ、母が美月ばかり甘やかすことに、陽太は不満を言えるわけがなかった。しかし、甘やかされる側の美月は、母に対してふくれっ面を向けている。
「やーだー。ミーちゃんも、ハムちゃんと一緒に遊ぶのー」
「ごめんね……。ミーちゃんの体のために、そのお願いだけは叶えてあげることはできないの。その代わりといったらなんだけど、今日の夕ご飯はミーちゃんが好きな物をなんでも作ってあげるから」
「本当⁉」
つい先ほどまで駄々をこねて泣き出しそうだったというのに、母の言葉ひとつで美月は満面の笑みをみせていた。
美月の笑顔は特徴的で、頬が緩むと上唇が内側にめくれあがり、口元からひょっこりと前歯をのぞかせる。その小動物みたいで可愛らしい表情が、美月の一番のチャームポイントだと陽太は日頃から思っていた。
「じゃあね、ミーちゃん、オムライスとハンバーグが食べたい。あとあとー、プリンも!」
「いいわね。でも材料がおうちにないから、スーパーに買いに行きましょう。ミーちゃんも一緒に来てくれる?」
「うん!」
美月が機嫌を直したことに安心したのだろう。母はほっと胸を撫で下ろすと、今度は陽太へと話しかけた。
「じゃ、陽太。お母さんと美月はお買い物に行ってくるから、あなたは留守番お願いね」
「うん……」
「それから、クラスで飼うことになったんだったらしょうがないけど、これからは学校から帰ったら、いままで以上にちゃんと手を洗いなさいね。汚いんだから」
陽太は「ぼくはハムスターに触ってないのに……」とつぶやいたものの、すでに美月のほうに向き直っていた母の耳には届いていないようだった。
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