第十九話 孤剣を叩っ斬る

チキ……


金属が僅かに擦れる、ほんの小さな音。

それはただの気のせい、風のせい、と考えるのが普通だ。


しかしリベルはそうしなかった。

考えるよりも先に身体が動いたのだ。


「っ!!」


身体を前傾させて転がるように、否、遮二無二しゃにむに転がって背後の脅威から逃れた。

しかし。


つぅ……


首筋が痛む。

ぱっくりと傷が口を開け、赤い筋を吐いていた。


しかし彼女の長い髪は、一本たりとて切れ落ちていない。

肉だけを斬る、達人の技だ。


首筋に手を当て、リベルは治癒魔法で傷を塞ぐ。

幸いにして皮膚と僅かに肉を切っただけ、骨までには至っていなかった。


素早く治癒を終えた彼女は最大級の警戒をもって、攻撃を仕掛けてきた相手を見る。


「ヤマ爺、心臓に悪い。」


そこにいたのは、よわい六十後半の細身の男。

オールバックにした灰色髪が、彼の歳を物語っていた。


背丈はリベルよりも40センチ程度高く、背筋も伸びて年齢より若い印象を受ける。

上下黒の燕尾服、内は白の長袖ワイシャツ、足元は黒革靴。


全体を通して、貴族邸に相応しい執事のような風貌である。

灰色の瞳を湛える目は孫を見るように、にこやかだ。


だが一つだけ、彼がただの好々爺では無い事を物語っている。

その手に在る、鋭利にして美しくもある黒鞘の刀だ。


「今のを躱すとは強くなりましたな、リベルさん。」


首を刎ね飛ばすに十分な攻撃を仕掛けながらも、ヤマ爺と呼ばれた彼は微笑む。

皺が深く刻まれたその顔には、何の邪気も宿っていなかった。


「相変わらず、ヤマ爺の剣は怖い。から。」


リベルは彼から目を離さずに言う。

眼前の老翁は、彼女にとって難敵なのだ。


「何も無い、言い得てみょうですな。それを求めて修練してきましたからな。」


はっはっは、と彼は笑う。

にこやかな老翁に対して、少女の顔には笑みは無い。


「油断しないよ?」

「おや、残念。年寄りに花を持たせてはもらえませんかな?」

「ヤマ爺に手加減、私が死ぬ。」

「おやおや、買い被りですな。」


彼は謙遜する。

しかしそれは、彼の実力をよく知るリベルにしてみれば、悪い冗談でしかない。


「よく言う。元騎士団長ヤマギ・ライセンブリッツ、弱いわけがない。」


斧の穂先でリベルは、老翁ヤマギを指す。

巨大なそれは威圧感を示すが、彼は柔らかな笑みを崩さない。


「はっはっは、今はただのじじいですよ。」

「龍を軽々一刀両断に出来るお爺ちゃんは、ただの、じゃない。」


やれやれとリベルはため息交じりに首を横に振る。

呆れた彼女の視線に、ヤマギは苦笑した。


「で、ヤマ爺も?」

「ええ。私以外は誰も手が空いておりませんので。」

「忙しいね。」

「おかげさまで、ですよ。」


聖殿はいつも忙しい。

上級騎士の手が空いていない、というのもよくある事だ。


だが。


「よりにもよって、ヤマ爺。」

「嫌われたものですな。」

「嫌いじゃない。でも戦うのは大変。」


即座に首を横に振ってヤマギの言葉を否定する。

しかしリベルの表情はあまり明るくない。


隠形おんぎょうの剣、すっごい戦いにくい。」

「お褒めに預かり光栄ですな、ははは。」

「私は笑えない。」


再びリベルは溜め息をく。


先程の一撃、鯉口こいぐちを切った音で何とか気付けた。

もし抜き身の状態で斬りつけられていたら、回避は更に困難だっただろう。


知覚出来ぬ剣、それがヤマギの剣。

そして自身の気配すらも消すのが彼の戦法だ。


事実、いま目の前にいるにもかかわらず存在感が希薄である。

少しでも目を逸らせば、そこにいる事を忘れてしまうような感覚に陥るのだ。


「最後に戦ったのは、何時いつでしたかな?」

「多分、二年前。」

「おや、随分と開いてしまいましたな。では……。」


抜いた刃を鞘に納める。

縦にした刀の柄尻に手を置いて、鞘尻で床をドンと突いた。


その一点からぶわりと光が溢れ、ヤマギを包み込む。

それが散った時、彼の衣服は様変わりしていた。


黒だった燕尾服は白へと変わり、白だったワイシャツは黒へと変わる。

燕尾の裾からおおよそ胸まで、燃え上がる炎のような黒刺繍。


金の肩章は白を彩り、黒の革靴は白を際立たせる。

シルエットは変わらずとも、服装からくる印象は大きく変わっていた。


「なんだか久しぶりに見る。」

「ふむ、団長を退いてからは正装を纏う事も減りましたな。」


かつてと比べると皺が目立つ手を顎に当て、ヤマギは思う。

退いてから既に五年、以前リベルと手合わせした時も互いに正装では無かった。


更には、団長にあった頃は正装の姿も異なる。

リベルの前で今の正装となった数は、十回程度だろう。


「リベルさんはどうされますかな?」

「んー。」


ヤマギに問われて、リベルは腕を組んで考える。


「むーー。」


首を大きく傾げ、彼女は悩む。


「ぬぬぬーーーーーー。」


唸りながら、ぐねぐねと身をよじらせる。


「迷ったけど、このままでいく。」

「よろしいのですか?」

「頑張る。」


リベルは、ふんす、と鼻息荒く返事をした。

それを受けて、ヤマギは優しく笑う。


「それでは……。」


笑みを消してヤマギは左に持った刀を腰へ付け、再び鯉口を切る。

チキ、と小さい金属音が鳴った。


「聖殿騎士序列三位、ヤマギ・ライセンブリッツ、お相手致しましょう。」


その名乗りと同時に飛び出したのは、リベルだった。

一足飛びでヤマギへと迫り、袈裟に斬る。


がっ……ぃぃん……っ!


振り抜いた斧の刃は、するりと滑って床を斬る。

抜刀したヤマギの一撃で刃の腹を軽く打たれ、斬撃の軌道と勢いを殺されたのだ。


「くっ。」


小さく声を発してリベルは再び距離を取った。


つぅ……


彼女の右の二の腕から服に血が滲む。

先の一瞬で刃を逸らした上に、ヤマギはリベルの腕を斬りつけたのだ。


しかし、長袖のシャツに切れ目は無い。

肉体にのみ斬撃を通す、遠当てのような達人の技である。


「はっ!」


再びリベルは床を蹴る。

刀の射程圏外から穂先の槍でヤマギを突いた。


ぎぃぃ……ん……っ


胴を狙った一撃は、中段に構えられた刀で軽く右へ叩かれて逸らされる。


ぽたっ


右手の甲から血が滴る。

刀の届かない距離、それも身体に近い側の手を切られていた。


「むぅっ。」


こちらの攻撃は容易に捌かれ、接近しても距離を取っても反撃される。

攻めあぐねる相手、まさに難敵である。


ごぉぉ……ん

があ……ん

きぃ……ん


打ち合っているはずなのに衝撃や音は少ない。

全ての力を殺されて捌かれているためだ。


攻撃しているにもかかわらず、まるで手応えの無い。

風に靡く柳の葉でも相手にしているかのような感覚である。


しかし、ヤマギの攻撃は違う。

的確にリベルの身体を傷付け、じわじわと血を流させていた。


腕、脚、胴、首、あらゆる場所に傷が生じる。

彼女は何とか躱しているが、まともに受ければ全てが致命の一撃だ。


「やりにくいっ。分かりにくいっ!」

「そうでしょうとも。」


柄を脇に抱えた状態で最接近して、石突で腹を突く。

刀の柄尻で叩かれて逸らされた事で体勢を崩した。


「っ!!!」

ジッ!


迫る白刃に気付き、リベルは咄嗟に身体を反らす。

そのまま大きく後方に跳び、空中で回転して着地した。


ぽたり


大きな血の滴が床に落ちる。

それは、彼女の顔から流れていた。


「女の子の顔。」


ヤマギの一撃は、リベルの顔を袈裟に斬っていた。

左の額から右頬まで浅く、しかし鼻筋はバックリと開いて白い骨が見える。


すぐさま治癒魔法で傷を塞ぐ。

そしてリベルは、大量に滴った鼻血を乱暴に拭き去った。


「失礼。ですが気にしていては貴女に勝てませんので。」


そう言ったヤマギの頬には、一つの赤い筋が生じている。

飛び退く瞬間、リベルが攻撃を仕掛けたのだ。


卓越した剣士であるヤマギも無敵ではない。

リベルにも十分勝機はあるのだ。


「そう言われると嬉しい。」

「我々としては、もっと平和な事で喜んでほしいのですがね。」

「ヤマ爺がそれ言う?」


リベルは僅かに責めるような視線を送る。

その言葉と彼女の目を受けて、ヤマギは少し寂し気に笑った。


「失言でしたな、それを強いたのは私だ。」

「ううん、私も後悔とかはしてない。元々からだったから。」


過去を思い出しつつ、リベルは言う。

それを聞いてヤマギは更に寂しげに、悲し気にリベルに視線を送った。


しかしすぐに彼は、元の通りの剣士の顔へと戻る。

白刃を構え直し、ヤマギはリベルと対峙した。


「過去は過去、現在いま現在いま。私は今なすべきを成しましょう。」

「うん、私もそうする。」


リベルは再び斧を構えた。

ちりり、とした緊張が走り、そして再び刃が交わる。


がギぃっ!


斧の刃は明確に刀の芯を捉えた。


「むっ。」


小さく唸ったヤマギに対して、リベルは更に攻撃を続ける。


ぎャんッ!

ヂぃンっ!

ぎギッ!


短く持った斧のやいばと刀のが擦れあう。

必然として近付いた二人は相手の顔を見る。


「流石に何度も逸らされてれば分かるよ。」

「ふふ、お見事です。が。」


ギギィ……ッ!

「っ!」


交わった刃がリベルの側に押し返される。

風にそよぐ柳の葉だった刀が、真に刃へとその在り方を変えた。


バヂィッ!

「!!!」


斧が弾かれる。

リベルが力負けしたのだ。


ガンッ!

チィンッ!!

ズガッ!!!

ヒュパッ!!!


縦斬り、横薙ぎ、片手正中せいちゅう突き、大きく袈裟斬り。

斧の柄で受け、身体を反らして躱し、飛び退いて、半身はんみずらし。


反撃の暇もない連続攻撃。

何とか躱しながらもリベルは後ろへ後ろへ押されていく。


年老いたとはいえ、彼の剣はなおも鋭い。

天下に轟く名声は伊達ではないのだ。


聖殿に手を出すなかれ。

ライセンブリッツに対するなかれ。


周辺各国において謳われた事は過去であり、だが現在いまだ。

ただ一人で聖殿の精強さを示す存在として、今なお響き続けている。


三十年。

それが、彼が聖殿騎士団の団長であった、時の数。


数十の戦と百万の屍。

それが、彼の通ってきた血塗られた、道の数。


聖殿騎士団の団長たる彼を指す言葉。

それが、聖殿に在る唯一無二の、一振りの剣。


聖殿騎士、序列三位『孤剣こけん』ヤマギ・ライセンブリッツ。

それが、現在いまリベルの前に在る者の名である。


血が散る。

肉がげる。


そよ風の如く、されど烈風の如く。

剣閃は一つ一つが必殺の一撃だ。


「っ!っっ!!っっっ!!!」


リベルは目を見開き、その全てを捌き躱す。

声を発する暇もない、それほどの猛攻だ。


先に戦ったギュスターヴとは、また違った剛の剣。

力で押せど、しなる刃だ。


だからこそ一発一発が素早く、彼の手にする刀の切っ先のように鋭い。

躱すのが精一杯である。


しかし、それでは勝てない。

リベルは覚悟を決めて、攻勢へと移った。


「でぇいっ!!!」


右から左へ大振り一閃。

ただの破れかぶれではない、魔力も載せた超高速の一撃だ。


「むっ。」


攻めていたヤマギは後方へ退く。

白い燕尾服の襟を、刃がかすめた。


「はあぁっ!!!」


斧を振った勢いで反時計回りに一回転し、もう一発。

ヤマギは刀を盾に、それを受け止める。


「しっ!!!」


刃を引き、もう一度右から左へ大振り。

しかし二度、同じ手は通用しなかった。


「ハッ!」

ザズッ!


斧を支えていた右手の甲が大きく斬られる。

骨まで両断された事で握力を失い、振ろうとしていた斧は手からすっぽ抜けた。


それはヤマギを掠めて、明後日の方向へ回転しながら飛んでいく。

そして。


トス…………ッ!

「っ!!!!!!」


リベルは大きく後方へ飛び退く。

だが、その一撃は完全に彼女を捉えていた。


ごぼぼっ!


声ではなく、水音が鳴った。

リベルは喉を押さえて、よろめく。


ヤマギの静かな剣は、彼女を刺していた。

皮膚を、肉を、そして気道を貫いたのだ。


呼吸さえままならない状態、常人ならばそのまま気を失ってしまうだろう。

だがリベルは強靭な精神力で耐え、治癒魔法で傷を塞ぐ。


「げぼっ、おぇっ、ごほっ!!」


口からおびただしい量の血を吐いた。

しかしそれでも、彼女はその場で立っている。


目はヤマギから離さず、闘志をその身に宿したままだ。


「よ、容赦無いね。」

「ええ。する気がありませんから。」

「そ。」


額に脂汗を掻きながらもリベルは平静を装う。


「このまま連れて帰る?」

「おや、負けを認めるのですか?」

「ううん。殺してからグルグル巻きにして蘇生されるのかな、って。」

「それがお望みでしたら。」

「望むわけ無い。」


リベルは辛い表情で苦笑する。


戦闘中は言葉少なで、闘志あふれる彼女には似合わぬ会話。

難敵を前に流石に弱気となっている。


はずが無かった。


ぢんっ!


隙を見せればヤマギは確実に攻撃してくる。

正確に、絶対に。


だからこそ、反撃される二回目の大振りを仕掛けた。

それが狙っていたのはヤマギではない。


彼女は待っていたのだ。

時間を稼いでいたのだ。


すっぽ抜けた斧が、それを成すまで。


がしゃっ!


広間の半分を覆う、巨大な金の飾り。

シャンデリアを切り落とす、その時までを。


「むっ!」


頭上から迫るそれにヤマギは気付いた。

しかし巨大ゆえに回避は間に合わない。


だが、彼には回避方法がある。

手にした一振りの剣が。


「ハッ!」


両手で持った刀が、巨大なシャンデリアを斬る。

かなりの重量を誇るそれは、割られた卵のように真っ二つとなって墜落した。


どっがしゃぁぁん!!!


金の装飾が散る。

砕けたガラスが雪のように舞い飛ぶ。


灯りの炎を生じさせていた魔石が周囲に飛び散り、邸に火を付けた。

そして。


「だあぁぁっ!!!!」

「!」


リベルは走る。

その手に斧は無い。


自らの身体を魔力で強化し、防御障壁を全力で展開して。

その身を一つの弾丸としてヤマギへ突撃したのだ。


「ふっ!!!」


炎に照らされた剣が光った。

大上段から振り下ろされた刃がリベルを襲う。


ばずんっ!!!!


しかし、リベルの方が速かった。

全力の体当たりは、ヤマギの細い胴へと突き刺さったのだ。


「ぐむっ!」


一歩、二歩、三歩、四歩。

そして五歩目で彼は膝を突いた。


その手から刀が滑り落ちる。


「ふぅ、ふぅ、おわり。」


斧の穂先を彼に向け、荒い息をしながらリベルは言った。


「ふふふ、お見事です。本当に、強くなりましたな。」


黒の燕尾服へと戻ったヤマギは、好々爺の笑みを彼女へ返したのだった。

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