独裁者・武田信玄 【第壱章 独裁者への階段】

第九話 国を一つに

一人の若い女性が、幼い息子を連れて逃げている。

六品（ろくしな）の土地にいた民の一人である。

「こんな汚いやり方で銭［お金］を得ようとしてはならない。

人として間違っているぞ！」

女性の夫は、こう言ってお金を一切受け取らなかった。

強欲な人々の中でも際立って立派な人間であった。

それでも大量虐殺事件に巻き込まれ、家族を守って惨殺（ざんさつ）されたのだ。

　◇

事件の直後。

六品の土地にいた民について、ある噂が飛び交った。

「六品と申せば……

御勅使川（みだいがわ）の流れを変えた先の土地ではないか？」

「うむ。

その土地にいた奴らはな、莫大な銭［お金］を掠（かす）め取って遊び暮らしていたらしい」

「莫大な銭［お金］を掠め取っただと！？

どんな手を使って？」

「こう文句を付けたのじゃ。

『替わりの土地をもらっても、その土地が実り豊かかどうかは分からない』

とな」

「ん？

そんなもの、分からないに決まっているではないか」

「うむ。

そして、立ち退きに必要な銭［お金］の何倍もの額を要求したらしい」

「何と姑息（こそく）な！」

「しかも……

事件で運良く生き残った奴らは、被害者面（づら）してのうのうと生きていると聞くぞ」

「我らは貧しい生活を忍んでいるのに、奴らはのうのうと……

許せん！」

「許し難い奴らよ。

己（おのれ）の犯した悪行がどれ程のものか、今だに分かっていないのだからな」

「あんな薄汚い奴らは……

もっと『痛い目』に合うべきではないか？」

「その通りじゃ！

奴らを傷付け、持っている物を全て奪い取ってやろうぞ！」

こうして。

事件を運良く生き残った人々は、同じ国の人々から略奪を受けることになった。

頼るべき夫を失った女性に、安全な場所など何処にもない。

何もかも捨てて必死に逃げた。

わずかな食べ物は全て息子に与え、諏訪（すわ）という土地へ辿（たど）り着くも倒れてしまう。

たまたま通り掛かった農夫が助けたとき、母親は虫の息であった。

最期の力を振り絞って言葉を残すと絶命した。

「名は、六郎と申します。

息子だけはお助けを……」

と。

　◇

集団虐殺事件と、その犯人とされた行商人組織が根絶（ねだ）やしにされた一連の出来事。

これは思わぬ『副産物』を生む。

立ち退きの保障を強く主張してお金を掠（かす）め取った、他の者たちが……

あまりの恐怖に震え上がったのだ！

「あの山には、女子（おなご）や子供もいたはず。

老若男女問わず皆殺しにされたのか？」

「そうらしいな」

「何と恐ろしい！

それにしても、誰も疑問を抱かんとはどういうことじゃ？

悪徳な集団ではあったが……

殺人を犯したことなどないはず」

「自作自演だろう。

それ以外に考えられん」

「自作自演だと！？

ならば、民に真（まこと）のことを伝えようぞ！」

「おぬしは馬鹿か？

『誰』が耳を貸すと？

晴信様は今や、この国を救った英雄ではないか」

「……」

「それよりも……

我が身の心配こそすべきだろうな」

「我が身？」

「もう忘れたのか。

我らは、とてつもない『憎悪』を買っている」

「憎悪？」

「次は、我らの番かもしれん」

「我らの番だと！？」

「晴信様から銭［お金］を掠（かす）め取ったではないか」

「保障を求めただけじゃ！

工事全体で動いた銭［お金］の中でも、ごくわずかに過ぎん」

「わしは、晴信様のことを勘違いしていた。

あの御方は……

『普通』の人ではない」

「どういう意味ぞ？」

「よく考えてみよ。

この国を洪水から救うために……

原因を徹底的に調べ、持っている銭［お金］を全て注ぎ込むことまでしたのだぞ？」

「……」

「国を、民を憂（うれ）い……

進んで己（おのれ）を犠牲にされたのだ」

「つまり。

晴信様は並外（なみはず）れた『純粋』さを持っていると？」

「うむ。

そして、純粋であればあるほど……

『強欲』な振る舞いを忌（い）み嫌う」

「……」

「やがて。

強欲な者たちに対して、とてつもない憎悪を抱くようになる」

「まさか！」

「『奴らを根絶（ねだ）やしにしてやる』

とな」

「何とも恐ろしいことじゃ！

そういえば……

有力な家臣がこう申していたはず。

『この治水工事は、晴信が勝手にやり出したこと。

家臣たちは誰も賛成などしていない。

味方のいない晴信一人に、一体何ができるというのか』

と」

「もう遅い！

『風向き』は変わった。

治水工事の成功で、晴信様は民の全てを味方に付けている」

「……」

「例え有力な家臣であろうと……

民の全てを敵に回すような真似などできまい」

「ならばどうする？」

「詫（わ）びを入れるのだ。

受け取った以上の銭［お金］を持参し、平身低頭（へいしんていとう）して謝罪しよう」

「行った途端、首を刎（は）ねられるのでは？」

「そんな心配をしている場合か！

どこぞの賊が、今夜にでも襲い掛かって来るぞ！」

　◇

その後。

お金を掠（かす）め取った者たちは、こぞって晴信に謝罪した。

「何卒（なにとぞ）ご容赦を……」

こう返されたという。

「今は戦国乱世ぞ？

いつ、どこぞの賊が襲い掛かって来るか分からん。

誰を頼るべきなのか？

この国の主（あるじ）か、有力な家臣か、はたまた銭［お金］か……

よくよく肝（きも）に銘（めい）じておけ」

と。

見せしめの効果は絶大であり、晴信は着実に『国を一つに』しつつあった。

　◇

「戦（いくさ）の催促（さいそく）か？」

自分の元を訪ねて来た武器商人に対する、晴信の開口一番である。

「催促などする必要はありません。

既に、晴信様は戦の準備を着々と整えられております」

「どういうことじゃ？」

「獅子身中（しししんちゅう）の虫を見事に駆除されたとか。

民は声を上げておりますぞ？

『晴信様こそ、我らの真（まこと）の支配者じゃ！』

と」

「いつ、どこで民の声を聞いているやら……

抜け目ないな」

「民の声を、聞き逃さないこと。

商売人の鉄則にございます」

「そのことならば、こうも聞くぞ。

『商売人は……

売るためなら民の声まで作り出す』

ともな」

「……」

「不要で、無価値で、害にしかならないのに……

必要で、価値があり、有益であるかのように民を欺（あざむ）いているのじゃ」

「お見事です。

しかし、民を欺くのは権力を持つ御方とて同じでは？

『敵は女子（おなご）や子供まで殺しているぞ！

奴らを絶対に許すな！

己（おのれ）の家族を、愛する者を守れ！』

と」

「ははは。

民を焚（た）き付け、敵への憎悪を煽（あお）ること。

これぞ権力を持つ者の常套手段（じょうとうしゅだん）ではないか。

民の目を、外へと『逸（そ）らす』ためにな」

「それだけではありません。

隣国（りんごく）が弱くなれば、どの大名も戦（いくさ）を始めます。

侵略の好機とばかりに」

「侵略はな……

大名にとって『必要』な行為なのじゃ」

「なぜ必要なのです？」

「利益をもたらさない大名に、一族や家臣どもが従わないからのう」

「一族や家臣たちの『欲』を満たさねば、大名の地位すら危ういと？」

「弟がよく申していたわ。

『人は、己（おのれ）の保身のためならどんなこともできる』

とな」

「己の保身……

それならば、我ら武器商人とて同じかもしれません」

「同じとは？」

「我らは大勢の者を抱えています。

家族がおり、生活があります」

「それで、こう考えたのか。

『戦（いくさ）を待っていては家族の生活を守れない。

むしろ我らの手で戦を引き起こすのじゃ！』

と」

「その通りです。

そして、それがしは晴信様に目を付けました」

「なぜ？」

「信用できるからです」

「信用？」

「晴信様は、何事も『徹底的』になさいます」

「……」

「『中途半端』よりもずっとご立派かと」

「中途半端にやるくらいなら、むしろやらない方が良いからな」

「晴信様……

お約束します。

『銭［お金］の力で、武田家を最強の武力を持つ大名にしてみせる』

と」

「宜しく頼むぞ」

　◇

2人は、本題に入っていく。

「ところで晴信様。

侵略の戦（いくさ）を始めるに当たり……

一つ心配がございます」

「どんな心配じゃ？」

「地図をよく見たところ……

信濃国（しなののくに）［現在の長野県］を侵略するには、まず入口に当たる諏訪郡（すわぐん）［現在の諏訪市、岡谷市、茅野市など］を必ず通らねばなりますまい？」

「うむ」

「諏訪郡を治める諏訪（すわ）家は、代々（だいだい）に亘（わた）って信濃国に住んでいます。

当然ながら故郷（ふるさと）への深い愛着があるはず」

「で、あろうな」

「武田家と諏訪家は同盟関係にあり、晴信様の妹君・禰々（ねね）様が嫁がれておいでです。

ただし。

いくら義理の兄が率いる軍勢であるとはいえ……

故郷の国への侵略行為を黙って見過ごすでしょうか？」

「なかなかに核心を突いてくるではないか。

諏訪家が、故郷の国への侵略行為を見過すはずがあるまい。

むしろ様々な方法で妨害するだろう」

「どんな方法で？」

「例えば。

我が武田軍を通した後で、『補給』を断ってくるとか」

「何と！？

それでは、兵たちが飢えてしまいますぞ！」

晴信は、一呼吸置いてから武器商人の質問に応えた。

「心配無用じゃ。

妹婿にして、当主である頼重（よりしげ）には……

死んでもらうのだからな」

【次話予告　第十話　妹婿への騙し討ち】

諏訪大社。

非常に長い歴史を誇り、日本中の人々から崇敬の対象となってきた諏訪神社の総本山です。

ここで諏訪家は、神主の次の地位に当たる要職に就いていました。