第五話 画期的な治水方針

川の流れそのものを変えるという前代未聞ぜんだいみもんの治水工事・信玄堤しんげんづつみ


工事そのものに問題はなかったが……

自分のことしか考えない『人間』がさまたげとなった。


洪水の被害は、甲斐国全てに及んでいたわけではない。

特に釜無川かまなしがわ流域に集中していた。

他の地域に住んでいる人々にとっては他人事だったのだ。


政府からこういう手紙が来たら……

あなたはどうするだろうか?


「川の流れそのものを変える治水工事を行うことになりました。

数ヶ月以内に立ち退いて頂きたい。

代わりの土地とお金はこちらになります」

と。


きっと、激しく動揺するに違いない。


 ◇


個人の権利が手厚く保障されている現代。


人間を立ち退かせるのは容易でなく、川の流れそのものを変えるなど不可能に近い。

堤防をより高くする程度だろうか。


こう考えている人は多いかもしれない。

「現代は最新のコンクリート技術がある。

技術を駆使して、高くて頑丈な堤防を築けば済むことではないか」


残念ながら……

堤防が高くなるのと比例して、頑丈さは失われる。

使用するコンクリートも経年劣化けいねんれっかしていく。

加えて自然災害は激甚化げきじんかする傾向にある。

最新の技術をもってしても、堤防だけで洪水を防ぐことなど不可能なのだ。


メディアもSNSも、洪水が起これば政府の治水事業を批判して独自の持論を展開する。

こう自問自答すべきかもしれない。


「いざとなれば長年住んだ家を立ち退く覚悟をもって発言しているのだろうか?

徹底的に調べず又聞き程度で分かった気になり、『楽な』批判だけしていないか?」

と。


武田晴信が実行したこと……


これこそ治水事業のあるべき姿なのだ。


 ◇


六品ろくしなに住む民の騒動が終わってからしばらくして。


「晴信様……

申し訳ございません」

側近の高坂昌信こうさかまさのぶである。


「昌信よ。

今度は何じゃ?」


「『商人』たちから抗議の声が……」

「商人どもが?

なぜ?」


御勅使川みだいがわの流れを変える工事は順調に進んでおります。

この暴れ川はまもなく竜王りゅうおう高岩たかいわがけにぶつけることが可能となりましょう。

ただし、崖の長さが足りない下流側は堤防を築かねばなりません」


「うむ」

「そして殿は……

堤防の頑丈さを維持するため、『画期的な治水方針』を打ち出されました」


?」

「その通りです。

『踏み固める』ことで、堤防の頑丈さを維持することはできるのですが……」


「ああ……

だから、商人どもが抗議しているのか」


「さすがは晴信様。

お分かりになったようで……」


「うむ。

大勢の民が堤防の上を歩けば……

元の道を歩く民は一気に減ってしまう……」


「そうです。

元の道でいち[商店街のこと]を開く商人たちは、大勢の客を失ってしまいます」


「これは死活問題だな」

御意ぎょい

だからこそ、商人たちが抗議の声を上げているのです。

『我らの商売を潰すつもりか?

どう保障してくれるのか?』

と」


「民に続き……

今度は商人どもがさまたげになるとは!」


晴信は、また壁にぶつかってしまった。


 ◇


はるか昔から……


治水事業のかなめとなる堤防について、こんな言葉がある。

「堤防に草木を生やしてはならない」

と。


食い破られた堤防には隙間が生じ、そこに水が入り込んで堤防を『劣化』させ、堤防が決壊する原因を生み出してしまう。

これでは肝心なときに何の役にも立たない。


晴信が画期的な治水方針を思い付いたとき……

側近の高坂昌信こうさかまさのぶと、こんなやりとりがあった。


「昌信!

閃いたぞ!」


「何を閃いたのです?」

「堤防に草木を生やさせない方法をじゃ!」


「おお……

どんな方法にございますか?

是非とも、それがしにお聞かせくだされ!」


「大勢の民に堤防の上を歩かせようではないか」

「ん……

それはどういう意味で?」


「人に、踏み固めさせるのよ」

「なるほど!

大勢の民が踏み固め続ければ……

堤防に草木が生えることはありません。

時が経っても強度を維持でき、洪水から民を守り続けてくれるでしょうな!」


「どうじゃ?

うまいやり方であろう?」


「いや、はや……

驚きました。

それは、まことにうまいやり方と存じます!」


「後は……

この疑問を解かねばなるまい。

『大勢の民に、どうやって堤防の上を歩かせるか?』

とな」


「強制的に歩かせるわけにもいきませんからな。

そういえば、堤防の先には韮崎にらさき[現在の山梨県韮崎市]という宿場町しゅくばまちがあります。

……」


「『用事』だと?

そうか!

そういうことか!」


晴信は、昌信の言葉に何かの着想を得たらしい。


 ◇


「昌信よ。

民が韮崎へ行く用事を、我らで作れば良いのじゃ」


「我らで作る、とは?」

「『城』を築くのよ」


「城を!?」

「武田家には、本格的な城がないことを忘れたのか?

甲府に躑躅々崎館つつじがさきやかたという『館』を持っているのみぞ」


「それは、そうですが……

今は城を築くための銭[お金]が全くありません。

治水工事であまりにも多くの銭が飛んでしまいました」


「もちろん今は無理じゃ。

だがいずれ、銭[お金]の余裕ができれば可能であろう?」


「それならば可能と存じます。

韮崎の地に本格的な城を築ければ……

工事の者たち、城に住む者たちのためにいちが立つでしょう。

人とモノが盛んに堤防の上を行き来し、十分に踏み固められるかと!」


「うむ」


 ◇


「大勢の民に堤防の上を歩かせ、踏み固めて堤防の頑丈さを維持する」

という画期的な治水方針。


後の時代になって江戸幕府が大々的に真似をした。

隅田川すみだがわに設けた堤防・日本堤にほんづつみ[現在の東京都台東区日本堤町]の先に、あの有名な吉原よしわら遊郭ゆうかくという巨大歓楽街かんらくがいを作ったのである。


吉原遊郭へ遊びに行く男たちが増えるほど……

日本堤を通る『人間』は増え、堤防はより踏み固められて強度が増した。

200


晴信の考えた画期的な治水方針は、100万人が住む江戸の都を洪水から守り続けたのだ!


 ◇


韮崎にらさきの地に本格的な城を築く」


晴信は、この工事に全く着手できなかった。

治水工事であまりにも多くのお金が飛んでしまったからである。


晴信の願いを実現させたのは……

息子の勝頼かつよりであった。

武田の本拠地を移すことを目的に、韮崎の地に新府城しんぷじょうを築く。


「勝頼は……

『なぜ』、甲府から韮崎へ武田家の本拠地を移したのか?」


日本史において、これは未だ謎に包まれている。

歴史書の筆者たちは様々な理由を予想して書いた。

甲府には拡張の余地がなかった、韮崎の方が交通の要衝であった、など。

父・信玄の影響力を排除するために移した、などとも。


それらの理由は本当なのだろうか?

仮に韮崎の方が交通の要衝であったのなら、韮崎市が山梨県の県庁所在地になっていてもおかしくはない。

残念ながら韮崎市はその『候補』にすら挙がっていない。


「父の影響力を排除したかった」

この理由は、あまりにも勝頼を小馬鹿にした表現だろう。

申し訳ないが……

勝頼は歴史書の筆者たちのような凡人ぼんじんではなく、些事さじ[小さな事という意味]にとらわれるような人間でもない。

こんな程度の理由で城を築くはずがない。


では、なぜか?

これは一つの『事実』から推測される。

堤防がほぼ完成してから韮崎の地に本格的な城を築き始めた、という事実である。


「大勢の民に堤防の上を歩かせ、踏み固めて堤防の頑丈さを維持する」

理由はこれしかない。


父と子は……

純粋に国と民をうれいていた。


 ◇


さて。


肝心の治水工事は、最大の問題に直面した。

次々と悪い報告が入ってきた。


六品ろくしなの民に続き……

他の場所で立ち退く予定の民も保障の額を釣り上げてきました。

加えて、いちを開いていた商人たちも次々と保障を求めております」


そして、途中でお金が尽きてしまった。

「銭[お金]が足りず、人夫にんぷ[作業員のこと]に手当てあて[給料のこと]が払えません。

一旦、工事を中止するしかないかと存じます」

と。


工事を続行したい晴信は……

手当り次第に豪商ごうしょう[大きな商人のこと]たちを回って武田家にお金を貸すよう求め始めた。


ところが!

豪商たちは誰一人として首を縦に振らず、お金を貸そうとしなかったのである。



【次話予告 第六話 武器商人との取引】

この当時……

大名たちの経済格差には著しいものがありました。

今川家、北条家、そして後の上杉家と比べ、甲斐国を治める武田家は圧倒的に『貧しい』大名であったのです。

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