独裁者・武田信玄 【第壱章 独裁者への階段】

第四話 どす黒い感情

甲斐国（かいのくに）［現在の山梨県］の人々を何百年も苦しめていた、洪水という自然災害。

残念なことに。

洪水と戦うことを諦めた人々は……

『現実』から目を逸（そら）し、こんな的外（まとはず）れなことを言い始めた。

「自然は神である。

人が神に対して無力なように、人は自然の猛威（もうい）に対して無力なのだ。

自然という神を崇（あが）めよ」

続けてこんなことを言い出した。

「自然には神々が宿っている。

それは神話や風習（ふうしゅう）［しきたりのこと］として今に残っている。

絶（た）やせば祟（たた）りが起こるぞ！」

と。

こうして人間が自分の利益のために都合の良い神を作り出し、何の必要もない風習を生み出した。

なぜ当時の人々は……

洪水の原因を徹底的に調べようともせず、ひたすら無意味な時間と無駄なお金を費やし続けたのだろうか？

答えを考えるまでもない。

徹底的に調べるなど、『面倒』だからだ！

自分勝手な妄想（もうそう）を膨（ふく）らませて神々の物語を創作し、占い、祭り、記念日などの風習を生み出す方がずっと簡単で、楽しくて、面白い。

『頭』を使う必要すらない。

「祟（たた）りが起こるぞ」

こう脅している割に、命懸けで風習を守るわけでもない。

現代に至るまでに多くの風習が途絶えてしまったが、祟（たた）りなど一つも起こっていない。

武田晴信が言った通りなのだろうか。

「は？

自然は神だと？

洪水と戦うのを諦めた挙句（あげく）、頭まで馬鹿になったか。

もし自然が神であるのならば……

神は、意思のある人より劣（おと）った存在になってしまうぞ？

民は、己（おのれ）の頭で筋道（すじみち）を立てて考えることすら怠（おこた）っているのか？」

と。

筋道を立てて考えようともしない甲斐国（かいのくに）の民とは異なり……

晴信は、洪水の原因を徹底的に調べるための『労力』を惜しまなかった。

ついに重要な事実を見付ける。

釜無川に合流する川の一つに、勅使（ちょくし）という言葉を含んだ御勅使川（みだいがわ）の名前が付けられていること。

普通の人なら見過ごすような事実かもしれないが……

晴信は見逃さなかった。

「その名前、妙だと思わんか？」

と。

こうして何百年も分からなかった洪水の原因へと辿（たど）り着いた。

京都にいる帝（みかど）［天皇のこと］が使者を遣わすほどの暴れ川が釜無川へ合流することが、一番の原因であったのだ。

一番の原因へと辿（たど）り着ければ、『正解』はおのずと導かれる。

「御勅使川（みだいがわ）の流れそのものを変え、竜王（りゅうおう）の高岩（たかいわ）と呼ばれる崖（がけ）にぶつけるのじゃ。

崖の広さが足りない下流側は、堤防を築いて足りない部分を補う。

これで洪水の被害を最小限にできるぞ！」

と。

　◇

治水工事が始まってしばらく経った、ある日のこと。

「晴信様。

困ったことが起こりましてございます」

側近の高坂昌信（こうさかまさのぶ）である。

「おお、昌信よ。

何が起こった？」

「御勅使川（みだいがわ）の流れを変える先の土地・六品（ろくしな）のことで……」

「ん？

六品？

そこに住む民は、立ち退（の）きを開始したはず。

まだ終わらんのか？」

「い、いえ……

それが……」

「それが何じゃ？」

「立ち退きを拒否し始めたのです。

一部の者たちは、武装して立て籠（こも）っているとか」

「……は？

そちは何を申している？

六品（ろくしな）に住む民には、替わりの土地と銭［お金］を与えたのであろう？

『既に』受け取ったのでは？」

「その通りにございます。

ですが……」

「ですが、何じゃ？」

「こう申しているのです。

『御勅使川（みだいがわ）の流れを変える工事は……

釜無川（かまなしがわ）の流域に住む者たちを洪水から救うのが目的でござろう？

我らにとって何の利益にもならないが』

と」

「は？

何の言い掛かりぞ？」

「加えて、こうも申しております。

『替わりの土地をもらっても、その土地が実り豊かかどうかは分からない。

なぜ、我ら六品（ろくしな）に住む民だけが犠牲を払わねばならないのか？

なぜ、我らだけが先祖代々の土地を捨てねばならないのか？

わずかな銭［お金］を頂いたところで納得などできない。

もっと多くの銭を頂かない限り、立ち退きには応じられない』

と」

「何だと……

ふざけるなっ！

奴らは、既に替わりの土地と銭［お金］を受け取っているではないか！

受け取るだけ受け取って、その後に何をほざく！」

「晴信様。

お怒りはご尤（もっと）もですが……

民が武装して抵抗するとなると、事は厄介です。

工事も長引きます。

銭［お金］で解決するしかありません。

納得するまで銭を積むのは如何（いかが）でしょう？」

「何を馬鹿なことを！

昌信よ。

そちは、奴らに利用されていることに気付かんのか？

より多くの銭［お金］を得るために、奴らはわざと立ち退きを拒否しているのじゃ！」

「その通りです」

　◇

晴信の怒りは激しくなった。

「その通り？

そちは分かっててそのような……

奴らには十分な替わりの土地と、十分な銭［お金］を渡した！

仕事がなくても当分は生活に困らない銭を受け取ったにも関わらず……

さらに銭を得ようと小細工してわしを愚弄（ぐろう）するとは！」

「お怒りはご尤（もっと）もですが、致し方ありません」

「致し方ないで済むかっ！

武田家当主として、これ以上の屈辱があろうか！

『我らにとって何の利益にもならないが』

だと？

己（おのれ）のことしか考えない、欲深く、醜（みにく）い奴らめ。

絶対に容赦するものか……！

昌信！

そちならば、首謀者が誰なのか見当（けんとう）を付けていよう？」

「おおよその見当は付いております」

「よし！

奴らを今すぐ殺せ！

一族もろとも皆殺しにしろ！」

「……」

「同じことをしようとする奴らを生み出さないためにも、『見せしめ』が必要なのじゃ」

「……」

「全ては無事に治水工事を進めるためよ。

多少の犠牲は仕方あるまい」

「お気持ちは分かりますが、それをしてはなりません。

むしろ納得するまで銭［お金］を積むのです」

「何っ！？

昌信！

そちは甘いぞ！

奴らの思惑通りに銭［お金］を積めばどうなる？

同じことをする奴らがもっと現れるではないか！」

「首謀者を殺せば、どうなります？

誰が殺したのか一目瞭然ではありませんか」

「……」

「短気になってはなりません。

今は、忍耐のときです」

「おのれ！

奴らにはいずれ、それ相応（そうおう）の報いを与えてやるぞ……！」

　◇

晴信は、より多くのお金を積むことで解決を図った。

立ち退きを拒否する民を自ら訪ねてこう言った。

「わしが間違っていた。

そちたちの申す通り……

生活を保障するため、もっと多くの銭［お金］を用意すべきであった。

許して欲しい」

「晴信から、銭［お金］をたんまり搾り取ってやった！」

民の表情が歓喜に満ちている。

結果として。

六品に住む民は一人残らず立ち退いたが……

晴信の心には、『どす黒い感情』が芽生えつつあった。

　◇

さて。

六品（ろくしな）に住む民の中で、とりわけ達成感を味わっていそうな男がいた。

晴信はこれを見逃さない。

忍びの一人に尾行を命じる。

尾行に成功した忍びは、男の住む場所を突き止めた。

とある山の行商人（ぎょうしょうにん）集団の根拠地であった。

何日も軒下（のきした）に潜（ひそ）み、ありとあらゆる会話を盗み聞きした。

数日後……

ついに、決定的な会話を耳にする。

「御勅使川（みだいがわ）の流れを変える工事があると聞き……

六品（ろくしな）に住む民に儲け話を持ち掛けたが、こんなにうまくいくとはのう！」

「あの民は不満を募（つの）らせていた。

『他人のために、なぜ我らが犠牲にならねばならないのか』

とな」

「そもそも。

治水工事とは、何かしらの犠牲が伴うものであろうが。

それすら分からんとは……

馬鹿な奴らだな」

「その馬鹿のおかげで利用できたのではないか？

己（おのれ）のことしか考えない馬鹿は、簡単に操（あやつ）れるからのう」

「晴信の顔を見たか？

どす黒い感情を抱えている顔であったぞ。

それなのに……

あの馬鹿どもは、多くの銭［お金］を得て狂喜（きょうき）の最中（さいちゅう）のようだったが。

『まさにしてやったり！』

などと」

「銭［お金］のことで頭が一杯で、途方もない恨みを買ったことすら気付いていないのだろう。

馬鹿も行き過ぎると同情すら感じるわ。

くわばら、くわばら」

「そういえば……

あの御方（おかた）が申されていたことは真（まこと）であったのう。

『今の晴信は国衆（くにしゅう）や家臣たちの操り人形に過ぎず、そこから抜け出そうと必死になっている。

この治水工事を成功させて大きな実績を上げたいはずじゃ。

銭［お金］をふっかけよ。

晴信は、必ず要求を呑（の）むであろう』

とな」

「国衆（くにしゅう）や家臣たちは、この治水工事を成功させたくないのだろう。

まあ……

我らにとってはどうでもいいことだが。

銭［お金］さえ儲けられれば、な！

ははは！」

その直後。

軒下にいた忍びは、風のように消えた。

　◇

忍びの報告を聞く晴信の心を、どす黒い感情が包み込む。

「そういうことか。

役目、大儀（たいぎ）であった。

追加の仕事を頼みたい。

その集団のことを徹底的に洗い出せ。

いずれ、一人残らず皆殺しにせねばならんからのう……」

と。

【次話予告　第五話　画期的な治水方針】

堤防の頑丈さを維持するため……

武田晴信は、『画期的な治水方針』を打ち出しました。

大勢の民に堤防の上を歩かせる作戦を練り始めるのです。