第3話 優しい花の蜜



 わたしはこの異界で初めて食事をした後、寝込んでしまった。

 まぶたが段々うとうとしてきて、頭が重くなる。体中がポカポカしてきて、なんだか日向ぼっこをしているみたいだなと思ったら、ただ座っているだけのことが難しくなってきた。

 ふらついて椅子から落ちそうになると、ルキアン様が驚いた様子でわたしの体を横から支えてくれた。


「大丈夫か、シェリ!? 急にどうしたんだ!? ジャスミン!! こっちに来てくれ、ジャスミン!! シェリがっ!!」


 慌てふためくルキアン様に、「平気ですよ。色々あったから、たぶんちょっと疲れてしまっただけです」と言いたかったけれど、声にならなかった。


 わたしは良い香りのするルキアン様の胸元に頬を押し当てたまま、彼が大きな声を上げるのを聞いていた。そしてそのまま意識を手放した。





『あぁ、シェリはあなたとわたくしの〝愛しい子だった〟はずなのに……! あのような異質な子に産んでしまって、あなたにもシェリにも申し訳ないわ。わたくしの胎が悪かったのかしら……』

『きみは悪くない。シェリも悪くはないんだ。ただ、僕らがシェリを愛し続けられるだけの心の強さを持っていなかったのだ。僕らは心が弱かったのだよ』

『そうですわね、あなた……』


 かつてオルセン家の廊下で聞いた、母の泣き声と父の慰めの言葉。そこにわたしが入る隙はなかった。


『見て、胸元の赤く禍々しい宝石を。あんな物が体に埋め込まれて生まれたなんて、とても気味が悪い子供だわ。どれだけ深い切り傷を負っても、すぐに治ってしまったそうよ。オルセン家の子は化物だわ。忌み子よ』

『いいえ、むしろシェリ様は神様に愛された子供です! ご覧ください、あの輝かしい赤い宝石を! こんなにすぐに怪我が治ること自体が神様の奇跡の証! ああ、シェリ様、どうか我らをお導きください! 我らもあなた様のように、神様に愛されたいのです!』


 わたしを見下し、気味悪がり、おぞましがった人たちの言葉。

 わたしを狂信し、有難がり、熱狂的な目を向けてきた人たちの言葉。


『修道女見習いシェリよ。そなたを『神様の花嫁』とすることが決定した。異論は許さぬ』


 やっと誰かの役に立てる。

 そう思う半面で、死んでもかまわない人間と名指しされたのは、生きていては役にも立たない人間なのだと結論付けられるのは、わたしの中の何かを壊した。


 頭が熱く、喉が乾く。

 体が重く、腕も足も動かない。

 床に寝転んでいるはずなのに天地が分からず、床がぐにゃぐにゃと波打っているように感じる。


「シェリ、シェリ。ほら、口を開けろ。花の蜜をやるから」


 暗闇の中で、聞き覚えの無い少年の声が聞こえる。

 薄っすらとまぶたを開けると、月光に照らし出された長い銀髪の少年が見えた。

 柘榴のような彼の目が美味しそうで、自然と熱い息が零れる。


「よしよし、いい子だ、シェリ。これは春の季節に採れた花の蜜だ。滋養に良い」


 重い頭の後ろを少年の手で持ち上げられ、冷たいスプーンがわたしの舌に触れる。とろりと流し込まれた花の蜜は、この世のものとは思えないほど甘かった。

 口の中の甘未が消えても、舌で懸命にスプーンをしゃぶっていると。少年が笑う。


「元気になったら、いくらでもやるよ」


 そうか、この花の蜜をいくらでも貰えるのか。

 彼の言葉を何故かすんなりと信じることが出来たわたしは、スプーンをしゃぶるのをやめ、再びウトウトと眠りに身をゆだねる。


 少年の手がわたしの汗ばんだ髪を梳き、頭を撫でる。


「頭にこびりついた嫌な記憶も感情も、汗と涙と熱と一緒に流してしまえ」


 熱に浮かされて、きっとわたしは何かとんでもない譫言を言っていたのだろう。

 少年が水で濡らした手拭いでわたしの目元を拭った。

 どうやらわたしは泣いていたらしい。


 泣いたってどうしようもないことだから泣けなかったのに、涙腺が緩んで涙がダラダラと目元を伝い、耳の後ろへと流れていく。

 泣いていることを自覚した途端、悲しみで胸がいっぱいになって息が出来ない。

 悲しい。さみしい。痛いことは嫌いだけど、怪我が一瞬で治る体じゃなかったら、わたしは今でも普通の女の子としてキラ皇国で暮らせただろうか?

 オルセン家の両親が笑顔を向けてくれて、妹にも姉らしく接することが出来て、普通のお嬢様みたいに友達がいたり婚約者がいたり、他人に好意を向ける余裕があったりしただろうか。


「さ、みしい」


 わたしの人生がさみしい。


 そう言って嗚咽をこぼせば、少年がまた慰めてくれる。


「シェリは俺の愛玩動物になった。だから、お前がさみしくないように構ってやるよ」


 少年の優しい声に、わたしはとても大事なことを思い出した。


「ルキアン、様」


 そうだ、この人はルキアン様だ。

 わたしのご主人様になってくださった、ルキアン様だ。


 頑張ってまぶたを開けてルキアン様を見上げると、三つ編みを解いた長い銀髪を肩に流しているお姿が見える。身に着けている衣装も寝巻に変わっていた。


「シェリは人間の国からルェイン大帝国に来たばっかりで、疲れが出たんだ。だからゆっくり休め」

「ルキアン様……」

「お前は俺の愛玩動物だからな。ちゃんと看病してやるよ。だから寝ていろ」

「……る、き」

「いいから寝ろ」


 ポンポンと肩を叩かれて、わたしはようやく眠りについた。


 そのあとも何度も夢に魘され、魘される度にルキアン様がわたしを起こして花の蜜を舐めさせてくださった。

 起きる度にルキアン様の髪型や衣装が変わり、わたしの着ていた花嫁衣装もいつのまにか寝巻に変わっていて、その寝巻さえ何度も柄が変わった。たぶんずっと熱を出しっぱなしだったんだな、とだけ思った。

 着替えをさせてくれたのはジャスミンさんらしく、夢と現の間で「最近の人間の体には、宝石が付いているものなのね」というジャスミンさんの声が聞こえたりした。


 それ以外の時は、だいたいルキアン様がわたしの看病をしてくださったようだ。

 悪夢に魘されている間、わたしは本当に多くのことを口から滑らせていたみたいで、ルキアン様はわたしが異界では名家のお嬢様だったことも、オルセン家にも修道院にも居場所がなかったことも、国難のために生贄として『異界の門』を潜ったことも、だいたいのことを知ってしまっていた。

 ルキアン様は輝かしい笑顔を浮かべて、


「下界の連中って本当に馬鹿だな。今頃、シェリを生贄にしたところで国難からは逃れられないことを理解して、蒼褪めているかもな」


 と、あっけらかんとした口調で言った。


 そして熱を出してから五日目の朝に、ようやくわたしはすべての悪夢を超えて、起き上がることが出来た。


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